BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

悲しみの淵にあるときは

生きてて、悲しい思いを一度も味わったことがない人はいないと思います…。

個人個人別の感情を味わえるように見えるこの世界、
起こった感情をたとえば「私の悲しみ」とういう風に感じていませんか?

私は以前そうでした。

私の悲しみであるということは、他人である限り当人の悲しみは味わえない、
想像できるだけ、
良くても自分の経験から探し出して近いところで共感できるだけ、
ということになります。

でもあるときから、私はこのことに疑問を持つようになりました。
個人の感情なんてあるのか、と。


きっかけになったのは、眠っている間に見ていた夢です。

もともと夢は鮮明でよく覚えている方でしたが、
ある時期から(記事の中でこればっかりですね…)、

自分が夢の中でカウンセリングやヒーリングをしていたり、
別の人の人生を眺めていたり、
もうすでに亡くなったらしい人と会ったり、
…していることに気がつきました。

その人たちが実在しているのかどうかは、確かめようがありません。

でも、そんなことはどうでもいいのです。

重要なのは、私がそこから何かしら学んでいるということです。

色々な人の人生、色々な時代、色々な場所、
ときには現代で今の自分のまま、ということもあり、
設定はさまざまです。

そして夢の中だと、自分であると同時に他の人の感情や思いが理解できるのです。


たとえば、私が通りでさらわれて殺される人間だとしましょう。
殺される間際の、激しい恐怖、痛みなど、色々と起こる感覚、感情を感じます。
ここまではこの世と一緒です。
けれどもそれを感じた瞬間、ナイフを持っている相手側の人生まで感じるのです。

その人がどんな人生を歩んできたか、特に、
この事件を起こしてしまうまでの過程が手にとるように理解できます。

だって、実際に背景がみえて、体験もできるんですから、その思いを。

例外なく、殺す側の人間の心は悲しく、とても痛いです。
本人はそのときある種の忘我状態で自覚していないかもしれませんが。

そうすると夢を見ている私は、殺される側と、殺す側とが合わさった、
強烈な痛みと悲しみを感じます。
そして、どちらの人間も同じように愛しいんです。
だからこそ…
その悲しみはあまりにも強く、悲しみの底なし沼に足をとらわれてしまうようで、

こんなの痛くてどうにもならない!!

と、痛みの中でわんわん泣きながら、
心臓がばくばくしたまま、目を覚ましたことが何度もあります。
(しょっちゅうこんな夢を見てるわけではないんですけどね!!)


…もちろん、こういう夢を見るときには、私自身が、
何かしらそのタイミングで解放したい悲しみを抱えている
ということが考えられます。
私、そんな悲しい体験は最近まったくしてないわぁ…と思っていても、
心の貯蔵庫に入っていた、という場合がありますから。

でも、この貯蔵庫がきっと、くせものなんです(笑)。
私はずっと、この貯蔵庫というものは“個人のもの”で、
自分がせっせと解放することでいつかカラになる!と思い込んでいたんですね。

でも、どうも、そうではないんじゃないかと思うようになったんですよ。

精神世界の言葉でよく私たちはひとつだ、ワンネスだ、と言いますが、
そうするとエゴは、
「分離していると思い込める技を持つ集合体(=これも結局ひとつ)」
と言えるのではないかと…。


つまり、エゴがひとつである、って、どういうことかというと、

「私の(プライベートな)よろこび」というのがないのと同じように、
「私だけの悲しみ」「私だけの苦しみ」というのもないんです。

みんなそれぞれ、独自の理由で悲しくなったり、
うれしくなったりしていると思っているけれど、

純粋なよろこび=私たちの源泉、実在(リアリティー)
あらゆる苦しみ=エゴの作り出した世界・虚像(イリュージョン)

どっちかしかなくて、必ずどちらかにアクセスしているんですよ。
きっかけが色々あるように見えるだけで、味わう中身はどちらかから来てるんです。

だからといって、苦しんだり悲しんだりする度に、
「私は今エゴに入っている だめだ、早くなんとかしなきゃ~。」

と、パニクったり、無理に感情を殺す必要はないんですけどね。
生きている人間、様々な思い、感情が湧いてくること自体は自然ですから。

ただ、そこにどっぷり囚われてしまうとき…
深い悲しみに襲われて、
絶望からどうしてももう這い上がれないような気持ちになったとき、

そういうときには、ひとつ試してみてほしいことがあります。


今の悲しさ、苦しみの横に「希望の光」を置くんです。
さいしょはおまじないのようなものでもかまいません。

もちろん、希望の中身なんて感じられなくていいんです。
ただ置くだけですから。

演技でいい、儀式でもいいから、

「これは必ず、いいことにつながる。
これは必ず、しあわせにつながっている。」

と、悲しみのとなりに光を置いてください。
言葉は、心で棒読みしててもかまいません。

悲しくて悲しくてじたばたしているときも、となりにひとつだけ、置く。希望を。
それがどんな希望なのか今はわからなくても、光のようなものを、置いてみる。

そう繰り返しているうち、もし、少し余裕が出てきたら、
その体験の中で素直に楽しかったところや、幸せだったところ、
心の糧となったもの、または愛しかったところを思い出してください。

たとえば誰かともう二度と会えない別れをしたとしたら、
別れという悲しみから少しだけ目を上げて、
その人とこの人生で出会えたこと、一緒に過ごす時間があったこと、
その中でも愛しかったところ…よろこびを思い出すのです。


悲しみ、苦しみは、ある信念に基づいて生じている、不確かなものです。

ほんとうは実体はないのですが、一個人のものではない集合体と考えると、
そこにフォーカスすればするほど一種の催眠状態みたいになり、
その世界色の思考が、掘っても掘っても芋づる式に出てくる可能性があります。
(さっきの夢の話でいう“悲しみの底なし沼”ってやつです。)

でも、一度見出した愛は、
普遍で確かなもので、心の中に蓄積されています。
愛したものは、形がなくなっても強さとして残り、決して、なくなりません。
たとえるならば、錨をおろしたように愛の基盤にしっかりつないでくれたり、
地下に根を張って次のすばらしい出来事に向かって成長していったりします。


…最後に、私が見る「亡くなった人」と会っているらしい夢の中で、
相手の「思い残し」のようなものを受信するという内容がよくあるのですが、
(ただ受信するだけでいいみたいです)、
その「思い」ってどんなものが多いと思いますか?

それはね、
圧倒的に
「愛」にまつわる思いばかりなんです。
残した人への想いや、自分の愛していた仕事、
好きだった(情熱を注いでいた)ことなど。

殺された人でも、殺した者への恨みなどを語るかというとそうではなく、
残された家族や愛しい人たちへの想い、
自分のしてきた大切なこと(未完了だった場合)
についての懸念のみを語っていました。

私の体験では、ですけどね。


とにかくこれからも、
「愛より強いものはなく、愛はなくならない」
ということを、ぜひお伝えしていきたいです。


↓悲しみのとなりで、見守っているものがいます。

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