さて、さっきの記事(◆「会話形式、いってみよー。」)の中で、
愛しか見ていない者にとって、愛が足りない状態から起こった行為は、
さらに愛を注ぐ(呼び起こす)ための出来事にすぎない。
という一文が出てきました。
では、愛が足りない状態、の当事者は誰なのか?
愛を注ぐ、対象は一体誰なのか?
ここに着目しながら、引き続きvanillatree とハイヤーなセルフの会話。
(※繰り返しますが、ここでいうコース=『A Course in Miracles』 原書のこと。
文中に出てくる表現は私の意訳であり、日本語版に対応した言葉ではありません。
エッセンスは同じはずですので、どうぞご了承ください。)
v.t: コースを学習していく中でさ、あなたは自分の半分しか受け入れてない、
うんたらかんたら…という箇所があったっじゃない。
(※テキストのどのページにあったか、今見つけることができませんでした)
私、その意味がわかるまで、ちょっと時間がかかったんだよね…。
H: うん。簡単に言うと、自分の中の「良い方」しか受け入れてないということだね。
この「良い方」っていうのは、すべての者が保持している普遍的な善性とは違う。
一方に「悪い方」があって初めて成り立つ、相対的なものだよね。
v.t: コースではそのこと、繰り返し言ってるね。
つまり、エゴの「私」は、他者が自分に対して不当な扱いをしていると思っている。
なぜなら、エゴの思考の中では、どちらか一方がイノセントであるためには、
かならずもう一方が不当(罪のある人間)である、としなければならないからだ。
…ということだよね?
「私が正しいんだ!/私は、悪くないのに」
っていうやつね。
両方の人間がひとしく正当で、両方とも罪がなくイノセント、
ということはありえないんだ?
H: そう。エゴの世界ではそんなことはありえない。
v.t: すべてが対になり、与えれば自分の分が減る、
リミットのあるエゴの世界だものね。
H: さっきの話に戻すと、エゴは自分だけがイノセントだと思っているから、
自分の中の、イノセントだと評価できない方の半分も、
受け入れられないんだよね。
v.t: ???あ、それって…
H: (にっこり) これは自分じゃない!と思ってるなら、
せっせと外に投影するしかないよね、その半分を。
v.t: (がっくり) ですよね~。私もやってるよ、それ。
H: ねえ、少しだけアドバイスさせてね。
矛盾しているように聞こえるところがあるかもしれないけれど、よくきいて。
投影している主(投影する側)の自分を、あまり個人的に捉えないでね。
「こういう出来事が起こったってことは、私が投影しているわけだから、
私の中にはまだこれがある、あれがある…」、
と浄化していく方法は、それを個人的に受け止めず、楽しくできる人にとってはOK。
もちろん、有効でもあるし。
ただ、私というのを、大きな存在のひとつの「窓」のようなものだと思ってみて。
あなたはいつでも、「反応」は選べる。
でも、起こることを「コントロール」しているのはその“あなた”ではない。
この違いがわかるかな?
「投影」を観察するプロセスのなかでも、自分は「通路」、「浄化の窓口」なんだ、
という意識を忘れないで。
すべての機会が、あなたの「愛をより拡大する」機会。
表現がしっくりくる人には、あなたは「神の手足」だ、
という言い方をしてもいいかもしれない。
繰り返すけど、「個人的に受け止めるな」、だからね。
原因を探ろうと思考にはまって、
「私の」新しいドラマを生みだしては本末転倒だよ。
それではミイラ取りがミイラになる。エゴのゲームに入りこんでしまう。
「あなた」は、決してひとりじゃない。
ここでは個に見えるみんなが協力して、
共同作業で、大きな「誤解」をひも解いているんだと思うといいよ。
みんなで一緒にやってる。それぞれがユニークなやり方で。
あなたが愛を拡大すればするほど、それに呼応する人々がはっきりと見えるはず。
ひとりひとりはそのための、「吹き出し口」。「窓」。「通路」。
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