BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

「神の思し召し」に対する誤解

数日前、歌詞になぞらえて書いた
タイム・リミットという幻想?
の記事の中で、
自分で書きながら補足が必要かな、と思ったポイントがあります。


最後の方で、「苦い夢」という歌詞から説明したところがありましたね。
あの部分を、

「ふーむ。それではやはり、苦しみ抜くことが霊的目覚めには必要なのかな。」

という風に、受け取ってほしくないなぁと思って。
ちがうちがう、ブカン ブギトゥ~!(←「そうじゃない」のインドネシア語 笑)


そこで、今日のテーマはこちら!!


罪があると信じること=苦しみ、
それは「神の思し召し」ではない!


まず、苦しむとき、
そこにはかならず何かに対するジャッジ裁くこと・判断)があり、
どこかで自分が罪というものの存在を認めている
ということを理解してください。

「罪」を信じ、苦しむことは、神の意思ではありません。
言いかえれば、内なる神性の意思ではありません


状況そのものは中立
、ってよく言いますよね。
状況それ自体に決まった意味はないと。

でも、状況にどう意味づけするかについては、
たったふた通りの見方があるのです。

エゴによる解釈か、神性に基づいた解釈か、です。


さっきの、「苦い夢」の話に戻すならば、
ある状況を嫌がりながら、おそれながら、そこから出ていくことはできない
ということを、お伝えしたかったのです。


なぜだかわかりますか?

嫌がったり、おそれたりするということは、
それがリアルであると思い込んでいるということだからです。
(エゴの基準に基づいたものの見方を信じており、同じ視点のままである。)

たとえその特定の状況から逃げ出すことができたとしても、
そこに流れている怖れをリアルとみなしている限り、
結局は別な形で同じような世界を見ることになるでしょう。


ですから、

苦しんでいたら、まずは、それとは違うものの見方
それとは違う解釈があるのだと知ること。それを認めること。

これが必要です。

苦しみが、神の思し召しだと信じてしまったら…そこから抜けられませんね?
その思考をするとき、その人の信じてしまっている対象は、
罪と罰」の存在を肯定している、「エゴ」なのです。


そうではなくて、

「罪」はない ということを前提に、

苦しんでいるときの自分のものの見方が、シンプルに間違っている!

これを知っていれば、「本来の姿を知っているもの(内なる神性)」に、
こう呼びかけることができます。

「私はこれを誤った見方で眺めています。
内なる神性に基づく見方に、訂正してください。」
と。



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