BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

虐待の連鎖を断つ

今日書こうとしていることは、ずっと書きたかったが、
自分にとっては腹を据えざるをえないテーマでした。

しかしありがたいことに、パソコンに向かって記事を書くときは、
スピリットがハンドルを握ってくれるのだと、
こうしてブログを書き続けることで、私は知りました。

今日のテーマは、「虐待の連鎖を断つ」です。

虐待をしていると思っている人、されたと思っている人だけでなく、
そのことと自分の人生とは無縁と思っている人にも、
耳を傾けていただきたい内容だと、思っています。

☆☆☆

虐待というのは、「自己懲罰」の形態です。

自分が、自分に腹をたてている、
自分が、自分を批判している、
自分が、自分を罰しているとき、

外の人を虐待します。


この世界にいる多くの人々が、真の意味での「愛」を、忘れてしまいました。

失われることなどない、
気づきさえすればいつもそこに当たり前に存在する愛のことを、

別の何か、「探したり、得なければならない、特別なもの」なのだと、
思い込んでしまいました。


そうすると、愛にはたくさんの偽りの衣が着せられます。
愛に、「形態」を求めるようになるのです。

自分の思い描く愛の形態(理想像)に当てはまらないとき、人は、

「愛がない」と、理解し、
その概念をさまざまに捉えて、葛藤するようになりました。

☆☆☆

「これが愛である」という理想像と、
自分自身の状態、自分の状況があてはまらないとき、

人は、何が悪いのだろうと、悩みます。

自分の思う「愛」の通りになれない自分に腹がたちます。

すると、その憤りを、外に向けます。

○○が悪い!
なんて疫病神なんだ!

虐待する人は、外の人を利用して自分を罰しているのです。


虐待された経験のある人が、「罪悪感」を保持する傾向にあるのは、
虐待した人が元々持っていた(外に投影した)罪悪感を引き継いで、
「着用している」
と、見ることができます。

虐待した相手の信念を受け取って、
「それじゃ、私が悪いのか」という具合に信じてしまうのです。

しかし同時に、一見厳しい言い方ですが、それも本人の選択です

本人が選んで、それを引き継いだということです。

誰も、外に見たもの、外から言われたことのすべてを、
そのまま信じこむわけではないでしょう?実は、選んでいますよね。

こう表すことで、ぜひ知っていただきたいのは、
だからこそ、それは自分の決意のみで手放すことができる
ということです。

そう、虐待(罪悪感)の連鎖は、
ただシンプルに現在の自分の決意で止めることができるのです。

☆☆☆

「あのときこうでなかったら」
「私の人生に、あの体験がなかったら」
「○○があんな風でなかったなら」…

その思考は、あなたを苦しめます。

あなたにとっての復讐は、過去の痛みの記憶を保持することであり、
それを覚えていることで、罪の証人になることです。

「証言します!
この者は、私に、このような罪を犯しました!」

あなたはどんな形で、「罪」を証言していますか?
それを、どのように、自分の人生の中であらわして(証明して)いますか?


それは、要因が何に見えても、自己懲罰に他なりません。
外の人や状況を罰しているように見せて、自分を欺いているのです。

どうしてかって?
結局、それは、自分自身の幸福、安らぎ、平和を犠牲にする試み、
「今」、心に存在している神の子の属性から、記憶(他の時)を利用して、
目を逸らす試み
だからです。


☆☆☆

どんな体験・信念についても、

自分がそれを体験してみたかったのだ、
自分が「着用」してみたかったのだ、

と気づくことが大切です。

何らかの理由で、自分が役に立つと思ったからそれをしたのです。

罪と罰を信じる者が、カルマの鎖に囚われます。
それらはすべて幻想です。
それらを信じることは、あなたを「時の囚われ人」にします。

誰も悪くない
何も悪くない

愛というのは、失われたことがなく、
どんなときでもそこにあったのだ

ということが、、信じられますか。

☆☆☆

自分の思う「愛の表現」通りに自分がふるまえないときも、
人がそのようにふるまえないときも、

愛は存在しています。

誰も、懲罰に価しません。


「こういう風に(自分の思う通りに)できてない、そうなれない。
だから、私はきっと愛していないのだな。」

「あの人は、こういう風にしてくれなかった、
それどころか、こんなことを私にした。
つまり、私は、愛されていなかったのだな。」


どちらの結論づけも間違っています。
愛は、DO(すること)ではないのです。
それに影響を受けるものではないのです。

愛というのは、BE(ただある)であり、
自分が、人が、どのような偽りの自己を演じていても、
消え去ることができないものです。

あんなところに、
あんな体験の中に、愛など存在していてたまるものか!

…と、なりそうなとき、
考えてみてください。

心から何かを憎んでいて、
百%それだけでできていたら、
誰も葛藤はしないのです。

根底に愛があるから、人は「それを遮っている違う自分」に気づいており
ただ愛でいられない自分に、苦しむのです。
それと一致しない自分を裁き、傷つき、ジレンマをおぼえるのです。

その苦しみを外へ投影していることに、本人がなかなか気づかないのが、
この世界が難しいように見えるところです。


愛を証明しようとしないでください。

もし、人生の中で、
愛がまっすぐに表現されない体験をしたとしても、

それでも、あなたは、愛し、愛されていました。

あなたの目から見て、そこに困難が見えたとしても、
「愛の方が間違っている」
「愛が、非実在である」
ということにはなりません。

言うなれば、愛は私たちの存在の根源
私たちという存在(魂)すべての素材です。

存在それ自体で愛を体現している魂が、どんな夢と自己を同一視しようと、
あなた自身が真実の目を持っていれば、
怖れるに価しないし、何もあなたに影響を与えません。

「愛がない」という夢から、自らしりぞけば、
あなたはそこに存在する愛を見ます。


すべての人の記憶の、隠されていた愛すらも姿をあらわすことを願って、
この記事を終わりにします。


それでは、また次回!


クリックありがとうございます
精神世界ランキング


☆スピリチュアルカウンセリング☆

お申込みのご案内

個人セッションについて

 

 ホーム

サイトポリシー

Copyright©2011 BEATS AND LOVE All Rights Reserved.