今日のタイトルは、「神にゆだねられたこと」ですよ。
「神にゆだねる」じゃないんですよ!(笑)
私は今日、あることでスパーン!と、霧が晴れたように、
自分の内がつながったんですが、
それで何をどう記事に書いていこうか考えていたら、
ジャーメイン(サン・ジェルマン)が、また、大いによろこんでました。
私が、サン・ジェルマンを始め、
見えない人格存在のことに言及しているときには、皆さんは、
「私個人の中の、サンジェルマンキャラ」
と、思ってくださってもかまわないのです。
私は、彼らを私の中の存在と感じるからです。
それが実在であるかそうでないかはともかく、
いずれにせよ、私はいつだって、
「自分版のサン・ジェルマン」を体験するにすぎないからです。
それは、たとえもし、私が
恨み節のユーレイさん(死後の人格)を体験したとしても、同じです。
それも私は、自分の中のもの、と感じます。
実際のところ、死後、恨み節を語る存在には、
いまだお目にかかったことはないですけどね!
さて、前の記事でちょうど、自我意識についてふれました。
今日も「神」という言葉を出して、
私たちの「全体意識」との関係を語りますが、
ここでは、私が「コース(A Course in Miracles)」に沿って、
説明していた世界観を、いったん、ブランク(空白)にしてください。
自分の歩んだ道として、記事はそのままとっておきますし、
それが「間違っている」というわけでは全くないのですが、
コースの概念も、レッスンも、非常に意義がありこれからも有効ですが、
ただ私は、あることに気がついたのです。
☆☆☆
それは、私が著者のヘレン・シャックマンさんの人生について考え、
深く共感したことから始まりました。
彼女は、まさに神性のチャネルであり、あの書を筆記した本人、
すばらしい内なる叡知と通じていました。
そして同時に、苦しみ、葛藤したという記録がありました。
実際のところは、記録ではその全貌がわかりませんし、
彼女の人生は彼女の人生で、完成しました。
そこに、人の思う評価は関係ありません。
ただ、
「あれだけの叡知が彼女の中にあったけれど、それを受け入れられなかった」
という生の葛藤の記録が、私の心に何かを提示してくれました。
私は、「彼女はチャネルだったから。口述したのはイエスだから別人」
などという答えは、意味がないと思います。
私がコースも、彼女の人生についての本も、それからURTEXTも手にして、
感じたことはこういうことです。
神への怖れ。すなわち自己分裂。
自分が、自分を怖れること。自我への誤った認識
を、1つのテーマとして、教えてくれているのではないかと。
☆☆☆
以前、私はこういう記事を書きました。
◆「神になろうとする必要はない」
この記事の中で、この部分に注目してください、
「私たち人間は、ある思いによってできたのだ。
私たちが個として存在していられるのは、
強い願いの結果であり、私たちはその祈りの結晶なのだ。」
これこそが、私のもともと自然に心に持っていた「思い」でした。
そしてその記事を書く直前、私は、妹の家である番組を見ていました。
深夜にBSで流されていた、海外を映す短い番組で、
その日は、ハワイのフラのドキュメントでした。
男性のフラダンスで、今では数が少なくなっている、
伝統を厳しく守り、教えを伝えるハワイ人の男性がフォーカスされました。
彼は、聖地を知っていて、そこは今では観光客の場所になっていますが、
観光客に事情を説明してどいてもらうと、
自分の教えた少年たち3人にフラを踊らせました。
それは、神へ向けての発表会でした。
成果を見せる、試験なのでした。
観客は、神です。
少年3人は真剣なまなざしで一挙一動に真心をこめて踊り、
師である男性は、かたわらでチャントを唱え続けます。
私は、その美しさに息をのみ、画面を見つめていました。
そして、彼らのはりつめた踊りが終わったその瞬間、
空一面に、大きな虹がかかったのです。
まるで、神が笑顔で「マルッ!」って、返答したみたいに。
このとき、私は、一瞬にして、上記の自分の想いを確信したのです。
私たちと、神との、相互関係を。
私たち(個)が存在しているのは、強い祈り、
これを体験してみたいという願いの結晶なのだと。
☆☆☆
私たちも、神に「ゆだねられている」のです。
私たちは、神に、この体験を任されています。
私たちは、分離していません。
神は、全宇宙を想像した以上であり、私たちの知らないシステムもすべて含む、
全体の意識、という意味では、はるかにはるかに大きい存在です。
それでも、私たちと、一体です。
今も、ただただ私たちは神の意識の中にいるからです。
そして神の愛は、私たちの思うセンチメンタルな愛ではありません。
神の性質は、言葉にするなら、
「自然とわいてくるよろこび」や、「創造性」、
「静かで、満たされた感じ、あふれる充足感」、
そして、
「スパークする生命の火花、源のパワー」
に近いと思うのです。
この地球体験では、「愛」という言葉が表現しやすいだけです。
私たちは、それを言葉という記号にして、
もともと内に持っている本質を、理解しているのです。
いわば、合言葉なのです。
☆☆☆
私たちはひとつの意識です。
ひとつの意識の中で、フォーカスを最大に広げたとき神です。
フォーカスを小さく、小さく制限したとき、この世界の個です。
両者には想像を絶するほどの「知」の隔たりがあるにせよ、
さまざまな意識レベルにある存在のそれぞれが、
それぞれ「自発性、創造性」をまかされているということは、
どの段階にいようと、それぞれが尊重されているのです。
いいですか、
神というものは、自分の他にあるわけではないのです。
ということは、知覚できていないとはいえ、あなたの意識なのです。
つまり、あなたの意識(全体)が、
意識の一部(自我)を、
無視して、無効にして、何かを起こすことはできません。
両者が協力してはじめて、一致した現実を外に見ます。
☆☆☆
これはとても大切なポイントです。
ちょうど前記事でふれたテーマでもあります。
確かに、創造の「地」の力、パワーとしてベースにあるのは「神」、
すなわち、「真の自己」の衝動です。
しかし、同じ意識の一部として、「自我」があるのも本当です。
それは、「切り離されていると信じている意識」なだけで、
実際に切り離されてはおらず、同じ意識の中にあるのですから。
ですから、私たちの人生に置き換えてお話しすると、
あなたは「真の自己」から湧いてくる衝動は何でも、
自我が対立しなければ、楽に現実に見ることでしょう。
しかし、自我というものが「真の自己」と対立している限り、
すなわち、あなたが自分を「自我の方だ」と思って、
そこからの思考を起こし続けて、そちらを「信じる(選択する)」限り、
(思考は、創造の種です。信頼は創造を許可するパワーです。)
あなたは、
「大きな流れ(自分の真実の想い)に逆らおうとする力」を生み出し、
ひとつの意識の、内容のあらわれとして、
現実に、その心全体の状況(シチュエーション)を外にも見るのです。
おわかりでしょうか。
私たちの心がそうやって、まるで内で想像上の「ケンカ」をしているために、
この世界は、それを体現しているのです。
私たちの心の、拡大図(映し絵)が、世界です。
いったんここで区切ります。
◆「神にゆだねられたこと2」へ続きます。
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