今日のサブタイトルは「怖れがウィルス」でいきたいと思います。
「自我」は、「問いかけるためのシステム」です。
自我は問いかけ、問いかけ続け、自分で答えを出します。
「私は何だろう?」「私は○○○○(名前)という人間だ。」
「ここはどこだろう?」「地球という惑星の、○○という国の、どこどこだ。」
自我というのは、「自分の信じていること」を参照にすることでしか、
つまり自分の予測の範囲内でしか、発想を生み出すことができません。
自分で自分に問いかけ、自分にあるもの(既存の信念体系)の中で、答えを出す。
そんな機構です。
もし、今あなたの手元にある鉛筆の芯が、
意外なことに人知れず、チョコレートだったとしましょう(笑)
自分の中に「意外性」を認める隙間がなければ、
そのチョコレート鉛筆は、木の覆いにくるまったまま、
芯をなめてみた子供などを除き、
人にはただの鉛筆だと思われて存在するかもしれません(笑)
自我が問いかけたことに、自我が答えを出し続ける限り、
私たちは、「真実」にふれることができません。
しかし人間というのは皆、「真実」に気づいているものです。
「真実」こそが存在のベースであり、そちらこそがリアルだからです。
☆☆☆
この「夢」を守るために、
自分の信じている世界を壊すのが怖くなっているために、
人間は、自分の知っている「真実」から自分を防衛します。
「真実」は、あなたの最も知りたかったことです。
「真実」に、傷はありません。
「真実」は、自我の生み出す「怖れ」ではありません。
☆☆☆
聖書でイエスの言葉とされている、
「右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい」
という言葉がありますね。
これは、誤解されやすい言葉だと思うのですが、
決して「虐待されよ!」と推奨しているわけではありません。
私は、こういうことだと思います。
人が攻撃するとき、その人は怖れています。
心の中で、自分が傷つけられた!と思っています。
何らかの思い込みの現実にしたがい、恐怖におびえているのです。
それは起こっていません。
それは、その人の「思い込み」なのです。
私たちが、人の「思い込み」をうのみにし、
いえ、それどころか、自分までもがそれに対して、
「自己弁護(防衛)」だの、「攻撃」だのを始めたら、どうなるでしょうか?
その人の、「怖れ」を認めてしまうことになります。
その、「間違い」を、リアルであると同意する態度です。
そして、そうやって闘ったり防衛したりすることで、
自分もまた「怖れの現実」に加わることになります。
あなたもそれを選択するのです。
右の頬を打たれたら(攻撃されたら)、左の頬も向ける。
これは、本当の「無抵抗」、「信頼」の態度なのです。
あなたは、相手に何も強制しません。
相手が怖れることですら、自由にさせてあげます。
だって、それは現実でないことを知っているから。
真実の方を、知っているから。
真実は、真実なのであるから、
人は誰でも必ずそれを心の底で知っているのです。
どんなに強い「思い込み」に従っていようと、
それでもやっぱりその人は「神の子」であるから、
自分の真実を忘れることなど、決して、決して、できないのです。
あなたが「仕返し」も「防衛」も考えないとき、
相手のなすがまま、ただ愛しているとき、
うわべを見透かして、相手の「変わらぬ光」を見ています。
相手の間違いは、あなたにとって「おおごと」ではありません。
小さなことです。危険ですらありません。
だから、あなたは「左の頬」を向けてやることができます。
それが、効力のない小さな間違いにすぎないと、知っているのだから。
自分が左の頬も向ける(抵抗せず、相手に自由をあげる)ことで、
相手もまた自分の真実に気づくと、わかっているのだから。
☆☆☆
これはなかなか高度な知恵ですね。
この間、「否定のもつパワフルさ」を記事に書いたように、
内なる真実に従って、NO!を示すことがときには必要である…というのも、
この世界では事実です。
でも、結局同じことを言っているのです。
「真実でないものを信じない」、
「自分が何を信じるか、選択していることを知る」。
これは、人に対するアクションに重要性を置くことではなく、
「自分の内なる決意・意志決定」…根底にあるものの問題です。
行動、出来事としての物理的あらわれ(表現)は、
それに勝手についてくるものだからです。
ですから行為はケース・バイ・ケースなのですが…
ここでは力学のお話になります。
人がおびえて、怒りにかられて、攻撃しているとき、
その人にわざわざ「NO!」ということは、
それですら、相手にとっては「攻撃」なのです。
「仕返し」しているように見えてしまうのです。
「NO!」と言う側も、それを単なる意思表示を超えてするのであれば、
つまり、それが相手への「拒絶」なのであれば、
それは自分への「防衛・自己弁護」に違いありません。
問題をリアルに捉えているということです。
では、右の頬を打たれたとき、あなたが意識的に棒立ちであったら?(笑)
これもまた「抵抗」に見られるかもしれませんね。
「耐えている」という風に見えるのだと思います。
実際、あなたが、内心は問題をリアルだと思いながら、
「何もしない(無抵抗)」でいたら、
それはただ耐えているだけ…スタイルにすぎない、そういうことです。
それもまた、相手の怖れを正当化している姿勢です。
「左の頬を向ける」というのは、流れに逆らうどころか、
信頼して一緒に流れることですね。
武術みたいなイメージをしてみてください。
攻撃の方向に対してぶつかっていくのではなく、
相手の差し出した動きと同じ方向に動くことによって、
エネルギーをゼロにしてあげる、ということではないでしょうか。
物理学にも似ています。
それは、力の反対向きの矢印ではなく、(→←)
かといって、力をせき止める壁をつくるのでもなく、(l←)
同じ向きの矢印で受けることによって、(←←)
相手の「抵抗」は、はじめてゼロになるのです。
押し返すことができなくなるのです。
☆☆☆
この世界の「ウィルス」は、怖れです。
怖れているから、「間違い」が起こります。
すなわち、思い込みや、攻撃です。
それは「調和」ではなく、「混沌」です。
「流れ」ではなく、「滞り」です。
どこかに怖れが見えたとき、このことを思い出してみてください。
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