BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

無ベースから有ベースへ1

暴風雨がすごいですが、皆さんご無事でしょうか~!?
安全を願っていますよー。

前の記事は、昨夜、いったんアップした後、
読み返して、書きたいポイントが少し書き切れていないわ~、と思い、
手直しをするつもりでいじっていたら…

激しい眠気にもうろうとして、完成しませんでしたガクリ


で、今日になって再アップしたものです。

そのとき書きたかった「要素」は、
今日もっとクリアーになったので、よかったみたいです(笑)
それは、この記事にも、続いています。

今回のタイトルは、「無ベースから有ベースへ」。


あなたはこう言っていませんか、
「あれが無い、これが無い、これが不足している…」

私たちは、「無いもの」ベースで何かを考えがちです。
ザ・無力感。

精神世界の「悟り」の考えも、そんな解釈にあなたを縛っていませんか?

到らない私が、到る道へ

私たちは神のもとへ帰る途上にある

こんな感じで。

表現の問題とはいえ、私はそれがしっくりくるとは思いません。


☆☆☆

ここ数日、不意に聴きたくなったCDアルバムがありました。
USHERというアメリカのR&B歌手の、『HERE I STAND』というアルバム。
 

Here I Stand

Here I Stand

 

私は、聴きたくなる曲、急に頭の中で鳴りだす曲、という形で、
スピリットのメッセージをよく受信します。

理由はなく、ある曲に強烈にひかれ、リピートして何度も聴き出しますと、
ふと、歌詞の中に、今の自分へのメッセージが見えるのです。


感覚にゆだねて聴いていると、そのアルバムの中で「共鳴」した曲、
心ひかれる曲は、「What's a man to do」という曲でした。

それは、2人の女性を愛しており、心がひきさかれている、
せつない男心の曲だと思うのですが、
私のポイントは歌そのものとイコールではありません(笑)

私のセンサーが「ハイライト」した歌詞の部分、言葉は、

That my heart is in two different places
(途中、略)
When my love has two different faces
And I can't break ties 'cause they both look right

だったのです。
日本語に訳すとこんな感じです。

ぼくの心は、違った2つの場所にある

ぼくの愛は2つの顔を持っている
そして、 ぼくはそれを断ち切ることができない
だって、両方とも正しく思えるから

心が2つの場所にある…
それがまさに、私たちの信じている状態ではないでしょうか。

だから、ここではないどこかを追い求めるのです。
この場所を否定して、一方を嘘だと思い、
本当の自分を探して、帰る場所を、別に探すのです。


☆☆☆

そして今日、しばらく読んでいなかったコース(A Course in Miracles)の、
レッスンをふと読みたくなって、過去に読んだ中から適当にページを開くと、
ある2つのレッスンのはざまでした。

1つのレッスンには、折よく、「Eastertide(復活祭季節)」という言葉が出ていました。
ちょうどこの間、電車の中の広告が一面、
ディズニーランドの「イースター」の広告に占拠されていて(笑)、
イースター(復活祭)の季節だなぁ、と考えていたばかりでした。

(私はキリスト教徒ではないですが、アメリカ留学中、
滞在先の家族はイースターを祝っており、思い出しました。)


おお、シンクロだなぁ!と思いながら読んでいると、

そのレッスンに続く、その隣りのページのもうひとつのレッスンは、
「The power of decision is my own.」
(決定の力は私にある。)

…私はそのレッスンの、こんな部分に目がひかれました、
(かいつまんでの意訳です)、

自身がそう決定しない限り、誰も損失に苦しむことはない。
自分でその状態を選ばない限り、誰も痛みに苦しむことはない。
それが自分の望んだ結果でない限り、誰も悲しむことも、怖れることも、
自分を病んでいると考えることもできない。

このことを極端だと思うか?
例外はあるはずだと思うか?

真実には例外はない、すべてが含まれる。

「自分の見ているこの世界は、自分が作っている」と考えることを、
あなたが「傲慢である」と信じているのは奇妙なことである。
神はそれを作っていない。

神が無秩序(カオス)を作ったと考えることこそ、傲慢である。

あなたは、神がこんな世界…(はかなく、罪にあふれ、恐ろしく、
苦しくて孤独で、死ななければならない体に精神が住まう世界)を作ったと、
神の狂気を責めている。

決定の力は、我々のものなのだ。

本当に謙虚であるためには、宇宙の共同創造者としての、
正しい立ち位置を受け入れると、決断するほかはない。

すると、自分が「作った」と思っていたものは、すべて姿を消すであろう。
気づきに上ってきたもの(自覚できたもの)は、
今も、これからも変わらない、「本来の姿」に戻るであろう。

そしてそれが、自己欺瞞が作ったものに取って代わるであろう。


本当の謙虚さを実践し、
エゴが「それは傲慢だ!」と証明しようとしている、誤った主張を捨てよう。

真実は謙虚であり、認めることは強さである。

自分を、神の創造したままの自分…
汚れなく、その力と愛において、神に似ている自分であると、認めよう。


☆☆☆

あなたが見ている世界を、あなたが作っていると考えることは、
傲慢でしょうか?

自分の、その力を認めるのは、思い上がりでしょうか?


私たちは、何か別の力があることを望んでいるようです。
自分以外に、自分を「翻弄する」大きなものがあることを、
望んでいるようです。


もちろん、私たちが思っている「自分」のコンセプトより、
大きいものはあるのです。

日常、自覚している狭い範囲よりも、
さらに大きな目線が、存在しています。


でも、どこまでいっても、それは「自分」なのです。

切り離されてないのです。

私たちが「自分」というものを、限定して信じているというだけです。

「○○○○(氏名)」という型の中に、自分を制限し、
その考え方で、信念で、見て、体験しているということです。


あなたは誰か?
「○○○○(氏名)」というだけの存在か?

違います。

それも含んでいて、同時に、それだけではありません。

あなたは、そのコンセプトを受け入れている存在です。


次回へ続きます。

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