BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

最近の覚え書と天使など(再アップ!)

みなさんこんばんは♪(*^∇^*)ノ*:・'゚☆

こちらは、昨日、一度アップした記事の再アップです。

アップ後しばらくして、おどろくほど根強い怖れが浮上してきて、
その感覚を振り返りながら、確かめながら、記事を編集しているうちに、
messed up(混乱して、めちゃめちゃに)してしまったのですが、

天使のはからい…(笑)により、もとのバージョンは無事でした。

今はおかげさまで、とてもスッキリしていますキラキラ☆

というわけで、自分で整理できたところをだいぶ加筆しましたが、
本筋は同じものを、もう一度アップします。

かなり長いですけど、興味のある方は読んでみて。
どうぞよろしく☆


☆☆☆


近頃の、自分の内面のフィードバックなど、書いてみようと思います。
意外とこれ、読んでくださる誰かにも当てはまるかも!?


「創造」についてのカテゴリをブログに設けて、
それについて書き始めたとき、

「自分が、自分の現実を創っている。
私たちには、ひとりひとりに、その力がある。
現実というのは、非常に柔軟性がある。」


ということについて、詳しく書こうとするのが、めっちゃ怖い!
…と、思っている自分に気づきました。

どこかで、
「それについては突っ込みたくない。自分の考えとして表明したくない」
自分が同時にいることを発見しました。


だけど、私の見えないサポートチームたち(笑)は、
それについて書け、書け、と促してくれましたし、
本当は、それを伝えることは、私の心からのよろこびだったのです。


私は、よくブログに書いているように、
長年にわたる自分自身の夢の体験…
それから、第六感というか、「見えない世界」についての自分の認識から、

「私たちはみんな、自分の現実をつくっている魔法使いなのではないか」
と、思っていたのです。

それに、
過去や未来は、変更可能であるということも、夢の教えで見て知っていました。


でも、これをオープンに信じる(変な表現だけど…)ためには、
私の中にいくつかの根強い怖れがあったのです。

それは…力に対する怖れでした。


それをおおっぴらに言う、自分自身が完全に信じることは、

◆神に対する反逆?(つまり間違い)
◆自分に力があるという傲慢?

という怖れと、同時に、

(このことについては、コースにも、
「逆に、神の子である自分の“本当のアイデンティティー”を忘れて、
創造の力が無いと思うことが傲慢なのだよ」
と、説明されています。
「無力さが謙虚さである」と信じるのは、間違いであると。

陥りやすい怖れなようですが、私は、その言葉を支えにする一方で、
実は恐怖を乗り越えられていませんでした。)

◆現実を創っているというアイディアによって、
「今」を百%受け入れる姿勢から逸れやすくならないか?
自分流のジャッジによって、自分のどこが悪いのかを探し、
直し続ける傾向を生み出すことにはならないか?

という、心配もあったのです。


セッションをしたり、このようなブログを書きたくなる私としては、
自分が表現することで、
誰かの「心」を楽にしたいという個人的な思い入れも強く、

いかなる人にも、現在の状況に対するうわべの解釈を基準にして、
「自分は失敗者だ」とか、「自分が悪いんだ」
なんて、誤解させる可能性のあることは書きたくない…という、
ずいぶん余計な心配をしてもいました。


おわかりかと思いますが、このようにあれこれ心配し、
自分の中で議論しているときというのは、
自分自身が自分のアイディアを信じられずに、怖れて、
「疑念」を持っているのです。


さて、それに関連して、こんなものも出てきました。

「その状況はあなたがつくっているよ」ときいたとき、

よろこびを持って「そうか!」と思える人と、
「なんてひどいことを言うの!」と怒る人と、いると思います。

前者は「自分の意識の力」に気づいたから、
後者は「被害者、受け身」としての無力感を持っているからだと思います。


一度、あるアイディアを受け入れたら、
私たちは、vacillateな状態(どっちつかずで、ふらついた状態)で
いることはできません。

どちらか一方の姿勢に、自分を統一する必要があります。

「これは例外でしょ?」

という特例を自分が持っている間は、その矛盾をそのまま、
現実に反映させて体験するのです。



自分が「許可」しなければ、自分の心が先になければ、
どんなことも、自分の現実として体験できない。

そして、外の世界や他の人と自分は、まったく切り離されていない。

これを事実として、きっぱり、いさぎよく受け入れることは、
なかなかに勇気のいることなのではないでしょうか。



また、そのアイディアを受け入れたからといって、私にとって、
「それは違うんじゃない?」と長年思っていた姿勢もありました。

どんなものかというと、
「分離した自己の目線のまま、現実を解釈している」
というものです。

全部がそうとは言えませんが…たとえば、
「心の声」を度外視したままの、ポジティブ・スィンキングや、
表面的というか、世俗的価値観をそのまま当てはめただけの、
願望実現法なんかがそうでした。

つまり、ものごとの目に見えないところ、
「本質」を見逃していないか?ということです。


「大きな自己の目線」を忘れずに、
内から湧いてくる「正直な自分の気持ち」にしっかり向き合う。

そのポイントが無視されてしまうと、
「現実は自分がつくっている」というアイディアも、
果てしない、自我的闘争の道具になるのでは、と思ったのです。


宗教やスピリチュアル・精神世界の分野でときに見受けられる、
現在の自分にとって不都合と見なした現実を、
過去からの因果応報みたいな「罰」だとか、
何かハードな「修行」のように捉えるという見方も、結局同じだと感じました。


「源(=私たち全体)の本質」を知らずして、
このアイディアを知ることは、目くらましですらあるのでは?
と、思っていたのです。


はい!悩み深きvanillatreeさんでしたよね~(笑)


☆☆☆

ここで、私にとってキーになるのは、やっぱりサポート存在たちでした。
あるいは、「自分の内なる叡知」といってもいいのですが。

コースの表現だと「聖霊」や「イエス」になるのかと思いますが、
私の場合はよく書いている「内なる声」、「天使」や「大天使」、スピリット、
それらに対する「自分からの、意識的な連結」がいかに重要か、よくわかりました。


そうやって、外を見れば見るほど、
外の人の考えに力を与え、左右されればされるほど、

自分の中心がわからなくなり、
何が自分にとって真実かわからなくなり、混乱してしまうのです。

また、そういうときこそ、外へ自分の怖れを「投影」することにもなります。
人は、自分の中の葛藤や、受け入れられないところを外に投影します。


なぜこんなことになるかといえば…

自分が、自分の表現を、やっていなかったからです!
自信のなさから、自然と湧いてくるものを制限して、せき止めて、

自分自身から、逃げていたからです!


☆☆☆

私の、とある「天使」が、自分の現実に戻ってきて、
(それはずっと私とともにいたのですが)
私は、天使ともっとつながるということを、思い出しました。

これまでのように、「疑いながら、試しながら」ではなく、
その現実を受け入れました。

夢で見ていた世界、教えも、「本当に」受け入れました。


「外」に見えるものが、その様相が、
私には、見える通りに見えないことがあります。

理性では説明のつかない感覚で、色々なことを感じたり、
情報が入ってきたりすることもあります。

現実は、見かけ通りではありません。
そして私たち「個」の目線モードから、見えていないことはたくさんあります。

かといって、私のスピリットは、
「どうせその位置からはわからないのだから、理解をあきらめなさい」
とは、言いませんでした。

ただ受け身に徹せよ、とも言いませんでした。

むしろ、気づくようにとベルを鳴らしている促しに対し、
ただ知らないふりをする…「目を閉じ、耳をふさぐ」ことはできないのです。


私は、そういうものを「読む」感覚、「見えないものを見て、語る」ことを、
なんとかして放棄しようとしていました。

何度も、背を向けようとしました。
でも、それは入ってきて、やめられませんでした。

それは私の「ギフト」であるのに、非常に苦労して、抑圧していました。
セッションがよろこびになるのは、それが役に立つと、私にもわかるからです。

そこには、多大な怖れがあったのです。


でも…、とうとう、
「第六感、サイキックな感覚」を、疑うのをやめました。

やめるけれども、感じたそれらを自分の怖れにもとづいて、
「自分で解釈する」のを避けるために、
そうなってしまわないかという不安、その重荷を手放すために、

サポートとしっかり手をつなぐことにしました。


だから、私はいつも「天使」に語りかけます。耳を傾けます。
スピリットの声に注意します。
内なる叡知に、アクセスします。

それが「日常」であることが、なじんできています。
必要なときには、意識的に、一体化します。

そしてそれが、驚いたことに、簡単で、最も効力があるのです。


☆☆☆

最近、前に記事にしたことのある、すでに亡くなった、
私の家族みんなが大好きだった愛しいうさぎが、
私の右肩によくあらわれることに気がつきました。

不思議な感覚です。

自分が、まったく違うことをしているのに、同時に、
意識下で、右肩を意識して、ふつうに心で会話しているのです。
感触もわかるし、エネルギーの手でなでなでしていたり。

それが自然に起こっています。

悲しみに暮れていた時期には、こういう体験はありませんでしたし、
私は、

「亡くなってからまで、絶対そばにいてほしいとか、
守護についてほしいとか、思わないよ。
生きていたときに、もうたくさんたくさん受け取ったから、十分だよ。
自由に、好きなところにいて…。」

と、思っていました。

だけど…感じるのです。そばにいるって。


それに気づく前の週にも、一緒に過ごしていたパートナーの左肩に、
彼の頬へ、愛おしそうに鼻を「すりすり」している犬の顔が見えて、

私は最初その犬の外見から(そんなにくっきり見ていたわけではない)、
「オオカミかな?パワーアニマル?」と不思議に思ったのですが、

姿を描写して、本人にきいてみると、どうも子供時代にかわいがっていた、
わんちゃんだったようだ、ということがわかったりもしました。


見えない世界を大切に思いながら、
「正確さ」にこだわって、間違いにおびえて、
自分の真実を殺そうとしていた私がいました。

それを受け入れると決めたときに、また、知覚は広がってきています。


自分を直視して、
「ずっと与えられていた」たくさんのものが戻ってきた今、
私はとってもわくわくしていて、驚くほど幸せです。


皆さんも、どうぞ「新しい可能性」を、それが何であれ、
あなたにとって心がひろがることならば、受け入れてみてくださいね~☆

隠していた恐怖に直面するかもしれないけど、それもギフトですよ!


おつきあい、ありがとうございました!(*^∇^*)ノシ


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