この記事は、前々回、前回の記事につづいています。
前回◆「大人になるということ」
引き続き、もう少しつぶやいてみます。
☆☆☆
ハイヤーセルフの目線で見ているときに、
自分には制限があることがわかる。
この場合の「制限」は、私がブログで、
ふだん私たちの中にある観念(信念)について描写しているときに、
「制限だ」と使う意味とは、ちょっと異なる。
何を言いたいかというと、ここにいる意味、のようなものだ。
単純に言えば、私が私たるゆえん、のようなものである。
近い言葉を探そう。
すべてが意識の中にあると言ってもだ、
私がフォーカスしている、この地球という舞台での体験、人間という体験、
この世界すべて。
私は、ひたすら愛しくてしょうがないのだ。
これが、私の「縛り」だ。
この私としてある限り、それをとくことはないし、とけることもないだろう。
私は、私の意思で、望んでここにいる
(いるというか、本当は場所はないから…この体験舞台にフォーカスしている)
ことを知っているのである。
ゆえに、たとえもがくことはあろうと、かつて陥ったような鬱的症状は出ないのだ。
どんなに悩み、苦しみ、落ち込むことがあっても、
昔たびたび思ったように、自殺でここから去ろうと思えなくなった理由は、
ここにある。
自己価値が高まったからではない。
存在根拠を得て、自信満々になったからではない。
ただ、自分の核が、何を感じているかを知ってしまったからだ。
これは自分の意思だと。
(そのほかに、「肉体の死」が存在の終わりではない、と
わかったからというのもあるけれど。)
☆☆☆
私は、「アセンション(上昇)」の感覚ではなく、
自分には「ディセンション(この次元への降下)の感覚が、
重要なのだと思っている。
人間である自分を観察している。
地球という設定、人間という体験をやっていることに非常に意味がある。
ここで、この舞台で存在することが望みなのである。
私にとってハイヤーセルフは、ゴールではなく、源である。
だから、特定の状態を目指せば見つけられるというものではなく、
私たちの中に、それは常にある。
その視点、すべてゆるしているその感覚が。
違いは、それを表現しているか、いないか、
気づいているか、いないか、程度である。
☆☆☆
私は以前も書いた通り、
夢の世界を通して自分の別側面、別次元の見方を知り、
おのずと「この世で現在の自分と思っている自分」を客観視するので、
ハイヤーセルフの感覚というのは、なくならないと「知っている」のである。
もし、夢という手がかり、助けが私になかったら、
私はこの世界という幻影に飲み込まれていただろう。
だから、この形式は自分の場合、
補助として使いやすいように携えている「特技」なのだと思う。
(どの人にもそのような支え、特技がある。)
そうしていつもハイヤーセルフであるところの自分は、
特定の体験の中で源を忘れがちな自分とのギャップを埋めるべく、
ささやいてくれる。
そこに忠実に、自分の体験を観察してみると、
色んな「制限(今度はふだん使っている意味通りの制限)」が、
見えてくる。
私は最近、「うひゃー、まだそんなことを」
と、思う自身の制限をたくさん見た。
その中には、たとえば、「女性としての自分」、性別に関する観念というのもあった。
地球舞台の二元性の体験の中で、この「男・女」という性別体験もまた、
様々な観念をまといやすいものだろう、と思う。
(ハイヤーセルフに性別はない。)
ふだん私は、「女性だからこうしなければ」ということを考えて、
何かを選択したり行動したりしていることは少ない方
(感覚的に、世間の風潮と比べての話)と、思っていたが、
ずいぶんあるじゃないか、と、思った。
人間は性別で2つにきっかり分けられるほど単純じゃないのだから、
男だから、女だから、という決めつけには気をつけようと思っていた。
(※ちなみに、表現の違いを認めることと決めつけは異なるし、
それを超えた本質に注目することはできる。)
だけど自分がそこに引っかかっていた。
細かく見れば、いっぱいあった。
生きている本人(私)にとっては「自然な誘導」で、
それらを目の当たりにしている。
そして、いらないものをとっとと捨てよう、と、思っている。
ただ、気づかないと捨てられないので、
気づくチャンスをつくったし、もらったのだと思う。
犬も歩けば棒にあたる。
身ぐるみはがして、また脱いで。
成長しながら、歩きながら、さまざまな景色(反射、映り返し)から、
気づいてゆく。
☆☆☆
私は、どんなに高尚に聞こえる教えも、
スピリチュアルな概念も、
日常に生かせなかったら意味がないと思う。
だって、気づいていなくたって、それは誰の中にも「ある」わけだから、
それを生きる…つまり「表現」することにこそ意味がある。
表現といったって堅苦しいものではない、
それは、あなたが、私が、今、この場で、できることである。
このブログももうそろそろ1年が経とうとしているのだが、
そういう気持ちがますます強まっていく中で、
自分の表現も変えたい気持ちが強まっている。
過去に書きたかったことは、過去に書きたかったこと。
それらは、私の糧になってくれ、道をつくる敷石になってくれた。
ただ、自分には、「こうなのです、ああなのです」
と、何かを説くようなスタイルはちょっと違うと思うようになってきた。
また、いくら私の生活の中にその実感(つながりの感覚)があるとはいえ、
「チャネリング」みたいな形式でメッセージを伝えることも違う。
私にとって、それは地つづきで、境目がないからだ。
では、より自由で、湧くものをダイレクトに出せる表現は?
川底をさらって砂金を汲むように、少しずつ、それを見ている日々です。
この内容は、次の記事★「そして、シフト」に続きます。
ブログランキングに参加しています
クリックありがとうございます
☆スピリチュアルカウンセリング☆