BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

過去や未来のエネルギー

過去の自分や、
未来の自分のエネルギーというのを感じたことがありますか。

私はこれらは、今の自分にとってみると、
ちまたで言う「幽霊」や「霊的存在」とあまり変わらないのでは?
と、思ったりもします。


何かが引き金になって、過去が立ち上がってくることがあります。
「思い出す」というより、自然と立ち上がる、という言葉のほうがふさわしく思います。

私流に言うと、それは「現在」というポイントから張られている、
時を超えた無数のリンクのひとつなのですが。


なぜその特定の過去が持ち上がってきたか。
(ちょっと原因→結果とか、過去→現在→未来、と時間が流れている、
という方向の概念を保留にしてください。)

そこと「今」引き合うエネルギーがあるからです。
現在から、無数にあるリンクの中で、それが「オン」になったのです。

一見、全然関係ないと思えるものごとの背後に、
そういった「幽霊」のような、過去の自分の姿が見えるときがあります。

それは、思いがけないことも多いものです。
「ここに?あなたが?どうして?」

ヴィジョンの中の、ホログラムの中のその人物を眺めていると、
今ここで起こっていること…少なくともうわべの状況ではなく、
そこに含まれている本質、心の奥が、ぼんやり垣間見えることがあります。


そういう意味では、私は、生きながら人は自然に、
大きな自分の中の様々な自分のエネルギーを「成仏」させているのでは…
いえ、言い方に語弊があるかもしれない、

様々な時系列の自分(分身)と協力しながら、生きているのでは…なんて、
思うのです。


パラレル(並行している)という目線で見ると、
たくさんの現実が同時に進行しているわけで、

よく言われる「今に在りなさい」というのも、
むしろ「今」におらねば、自分という存在のエネルギーが拡散してしまうのだ、
ということがよくわかる。

それは「絞り」の問題であるような。
(適切な絞りによる→自然な集中→すると起こることは、言葉は「絞り」といいつつ拡大、であったりしますよね 笑)

なぜならば、「今、ここ」にいると思っている個の自分というのもまた、
過去や未来の自分と同じように、
ある意味ではフィクションとも呼べると、私は感じるからです。


たとえてみましょう。

ロールプレイングのゲームで有名なドラクエにしても、
あるときから、「選択式」が取り入れられました。
プレイしてないけど、ファイブ(古いね 笑)が出た頃に、そんな話をききました。

それまで、プレイの仕方は自由でもストーリーは決まっていたのに対し、
何箇所かで「人生の選択肢」が出てくると。

それによってストーリー展開が分かれる箇所も生じてくるという…。

ただ、その選択が何であるにしろ、
すべての選択肢はすでにデータとしてソフトに組み込まれている。
(折り畳まれている)

そしてまた、ゲームをプレイしている者が、
ゲームの中の自分に現在起こっていること、
現在再生し、進行させていることから注意をそらしまくっていては、
プレイは効率的でない。

たとえると、そんな感じでしょうか(笑)

☆☆☆

ただし、先ほど書いたデータの自然な「立ち上がり」に関しては、
必要があって起こることであると言えます。

過去の存在は、現在の自分と完全に切り離されて存在するものではなく、
この現実を今、生きている「個の自分と思っている存在」と同じように生きています。

どこにエネルギーを注ぎ、何を「自分の現実」と受け止めるか、焦点を選んだ結果が、
私は「今」とはここで、「私」はこうである、ということになります。

もちろん「未来」の自分も同じく存在しているので、
未来の自分が、今の自分に「支援のエネルギー」を送っているということも、
十分にあることです。

あなたが過去の自分へ、今の自分から、
愛や感謝、支援のエネルギーを送ることができるのと同じようにね。

以前にこんな記事も書きましたが、フェルマータ

beats-and-love.hatenablog.com

過去がずっと同じである、それは固定されたものである、
ということはないのです。

私は、過去は過去で、変幻自在、ある意味では進行していると感じます。
つまり、この私が認識していない「可能性の過去」もあるのです。
「可能性の未来」も同様です。

自分自身の現在のエネルギーがシフトすれば、
ものの見方が変わってしまえば、
過去の記憶、すでに決まっていた出来事、と思っていたものの中で、
あなたが「フォーカス」する内容も、一緒に変わっていきます。

あなたが本当に変容したときには、
それまでは「痛み」と感じていたエネルギーが「ゼロ」になってしまい、
同じ出来事を思い出しても全く痛まない、という特徴もありますね。

データとして「消える」わけではないのだけど、もう「オン」じゃない。
味付け、効果音(BGM)が消えるといってもいいし。
リンクが薄れる、エネルギーがそこに流れなくなる、と言ってもいいかも。

☆☆☆

今週末は、ちょっと意外な展開で、自分の“過去存在”が不意に登場し、
(過去世とかではなくこの人生の過去ですよ)

その姿を「今の自分」がまじまじと眺める体験があったので、
今日の記事の内容を書きたくなりましたよ。

やはり「自分」とは、たくさんの糸、カラーによって織り成された、
織物のような存在だと実感します。

私は時空間の壁がゆるい設定なのか、
過去の自分にも、未来の自分にも、「記憶として思い出す」というよりも、
エンカウンターする(実際に遭遇する感じの!)体験があります。

大昔のことですが、自分の部屋で泣きながら眠ってしまったとき、
不意に目を覚ますと、過去の私が、
(根本的に、過去のその頃持っていたテーマと同じことで苦しみ、泣いていた)
ベッドに横になっている私(その当時でいう「現在の私」)を、
両膝をそろえて、正座から少しだけ身を乗り出すようにして、
心配そうに眺めているのを目撃したこともあります。

豆電球のオレンジ色の照明の中でも、その姿がはっきり見えました。
ベッドからは少し離れた窓の近くで、
床の上よりももっと上、空中に浮いた位置にいるように見えました。

面白かったのは、その姿は何年も前の自分であると同時に、
その痛みを持っていた頃の私と深く関わり、身近なサポートの存在となっていた、
妹(やはりその頃の姿の)とも似ていたのでした。
つまり、まるでかつての2人の、ミックスのような姿に見えたのでした。

自分という存在は、別次元や時空間にまたがって、分身がたくさんいる
と言えて、
そしてその分身同士が顔を合わせたりもする。

こういうことを体験していると、
ふだんここで関わる人たち、外で顔を合わせているいわゆる「他の人たち」も、
やっぱり別表現の自分で、「他人」じゃないのだな…って、思えます。


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