なんだかタイトルが厳めしいかな?(笑)
でも、降りてきた言葉をそのまんま採用します。
コワイ意味ではなく、ひとつの表現なのでそのつもりで。
このタイトルが象徴しているもの、
私の体験に基づいて、ここで精一杯あらわしてみますので、
言葉の奥にあるもの、言わんとしていること、
読んだらわかってもらえるのではないかな、と思います。
☆☆☆
あなたが魂の目むきだしだった頃、
この世界になじんでいなかった頃、
もしかしたら、
大人みたいな表現はまだできなかったかもしれないけど、
内面の“自分が何であるかを知っている者”として、
「うっへぇー!本当に!?まじで!!」
と、思ったかもしれない。
色々なものを見回して(笑)
そんな単純な驚きを、この世界に対して抱いていた人、
ファサード(本来は、建物の正面という意味のフランス語だそうです。
ここでは、“見かけ上の、外見上の”…というような意味で使っています)
を、どうしても本物とは思えなかった人に向けて、この記事を捧げます。
☆☆☆
最近、「自分」にフォーカスする記事が続いたので、
今度は、「相手」に対する見方について、書いてみましょう。
どのアプローチで書こうと、結局のところ、
それを「自分」に向けてもいるのだから、同じなのだけれど(笑)
そう、これから述べることは、自分自身の場合もそうであるという風に、
ベクトルを他者と同時に自分にも向けながら、読んでほしいです。
そうすれば、わかりやすいですから。
☆☆☆
あなたは、人の中にある光を見る。
それが、あなたにははっきり見える。
そうでない現実なんて、嘘みたいだ。
あなたはそうして、もしかしたら、相手の持てる可能性を眺めている。
ポテンシャルを見つめているのだ。
それは確かに存在しているから、
あなたには「それが無い」ことにするなんて、とてもできない。
そうして、あなたは戸惑う。
相手の持っている光、ポテンシャルの姿と、
現在の等身大の姿に、ギャップがあるからだ。
その差異を埋めようとするとき、あなたは困難と向き合う。
もっとこうできるはずなのに
わざと そうしてるんじゃないか
どうして 知らないふりをするんだろう
なぜ うそをつくんだろう
こうなると、あなたの「視点」は大きく歪んでしまう。
あなたには、「本当にそれで精一杯なんだよ」という見方、
あるいは、「それは良くもなく、悪くもないよ」という見方が、欠落してしまうのだ。
あなたは、もしかしたら実際に、相手の持つ本質を見ているかもしれない。
けれども現在、その人はそれを生きてはいないとしよう。
「どうしてそんな風になっちゃうの?」
と、あなたは悲しく思うかもしれないが、
それはやはり、あなたを「暴君」にする考えである。
なんとかできたら…と、それを自分の肩に背負ってみたり、
なぜそんな風に見て見ぬふりをするのさ、と、
誰かさんの方に非があるとしようとしてみたり、
…そういった試みからはすべて退こう。
どちらにしろ、それは苦しみを生み出すのだから。
☆☆☆
今回のタイトルでつけた「見える者」の意味は、
不思議とされているもの、を見る者の話ではないんです。
本質を見る者のことを指しています。
それは、そう思うことで驕るという意味ではなくて…
私には全部が見えるとか、絶対的な真実が見えるとか、
そんな過信の話ではなくて。
ただ単に、ファサードをファサードだと感じてしまう者のこと、
違和感に敏感であるもの、
その奥にある実在性を否定できないものについて、
「見える者」と呼びかけています。
☆☆☆
そのとき、その人には、本当にわからないのかもしれないよ。
あなたには明らかなように見えることも、その人には見えていない。
そんなバカな、と思うかもしれないけど、そうだったら?と考えてみて。
“わかっているはず”と思うことが、苦しみを生み出す。
もちろん、あなたは心の中で、
その人の「わかっている部分」と交流することはできる。
いつもつながっている、その部分を感じることはできる。
でも。
一生懸命やっているんだよ、みんな。
ある角度から、「非道」だなんて、評価されている人たちも。
誰も、“わざと”じゃない。
(わざとの場合を含んですら、ですよ。 笑)
あなたもそうでしょう?
本人はそれで100%。
そのときは、そうとしかできなかったんだ。
その人は、その人自身の催眠状態の中にいる。
あなたの思うようになど、動いていない。
自分の理屈を手放さなきゃならない。
このことを混同すると、あなたは「悪意」を見出し、
それがあると錯覚してしまう。
違う。それは悪意ではないんだ。
催眠状態だ。
あなたが持っているのとは、異なる種類の催眠状態なのです。
あなたが自分の催眠状態からしらふであるとき、
相手のかかっている催眠状態が何なのか、ありのままに見えます。
そのとき、あなたは、
「愛」という名のもとに「都合よく、美化して」見るのでもなく、
「分離」の意識を介入させて、「上から(あるいは下から)目線で」見るのでもなく、
ただ単に、フラットに、
(自分から)地つづきの現状を見るのです。
そのとき、投影機である自分に対応する、
中身(あなたと関連・共鳴しているリンク)を発見することがあるかもしれないね。
それは決して絶望ではなく、むしろ救いです。
相手を自分より強いと思わないで。
形は違っても同じ。
人の弱さもそのままに、それを見ても大丈夫。
むしろそれを受け入れれば受け入れるほど、
それはどうということもなくなるだろう。
その人のもつやさしさ、かわいらしさ、無邪気さが、
胸にばーっと浸透してくるだろう。
今、ここでは、それが私たちの協力しあっている体験なのだから。
あなたが相手に見ているポテンシャル、
それが「無い」わけではないのです。
逆です。
そうした本質がベースに在るからこそ、この世界がこんなにも変化に富み、
たくさんの感動を生み出してくれるのです。
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