昨日のことです。
夕方、パソコン疲れした私は、目や体を休めようと机から離れ、
横になってぼんやりしていました。
ある曲が心に浮かび、イヤホンをつけてそれを聴きながら、
ぼーっとしていました。
するとなんともいいようがないのですが、
またしても(ときどきあるように 笑)目線が切り替わる感覚というか、
正確にいうと、境界は無いまま浸透しつつ、別なところを見ている感覚というか、
それが始まりまして。
ここにいながら、一緒に別の場所をみている。
私は、いつのまにか自分の幼少期の風景を見ていました。
ただし、私は私を“見守るものの目線”になっていたのです。
実はこの体験は、ずっと以前にもしています。
それがどんな風だったかは、過去記事の、
◆「もうたたかいは終わりにしよう」という記事の中に書いてあります。
そのときの感覚をそのまま言葉にすると、
私(この個人の私)の目を借りて(通して)、見ている景色をみている。
そしてそのときの私(個人の自分)の感じていること、思っていること、
すべて、すべて、すべて、共有している。
それを守護存在でも、天使でも、“覚えている自分”でも、大きい目線でも、
みなさんの感覚にあてはまるどんな風に認識していただいても、いいのですが。
あふれる…としか言いようのない、怒涛のような、
圧倒的だけど本当にやわらかい、愛しさで、見守っているのです。
私(そのときの自分)を体験しながら。
そこから湧き出てくる想いは、
「この人の感じることすべてを引き受けてあげたい。」
「この人の苦しみすべてを引き受けてあげたい。」
そして私の感じていること、思いを、ときには、
「そんな風に思わなくていいよ。」と見守っているのです。
言語化すると限定的になってしまうのですが……
そのほかにも、
ただこの人が生きていること、体験していること、すべてが愛しくて。
たとえば通学途中の「私」の目を通して道端のペンペン草を見ているシーン。
そういった、なんでもないことが、あたたかくて、貴重で。
唯一無二の、この「私」のフィルターを通してみた景色が、どんなに愛しいか。
泣かずにはいられませんでした。
なんでもないことなのにね。
そして、
この目線は、いつ如何なるときにでも、あなたにも注がれているんだよ。
☆☆☆
このブログでは、「夢」の話題をよく出していますよね。
みなさん、夢の中で、
自分が全体(夢)を見ているものでありながら、個の目線でもあることに、
気づいたことはありますか?
もしかしたらあなたの姿かたちは別の何かになってるかもしれないけど、
たいてい、夢の中には「私」がいますよね。
「これが私だ」っていう感覚はわかっているでしょ?
その自分を通して「体験」をし、その目を通して眺めていますね。
一方で、まるで映画を見ているみたいに、
本人(主人公)であるはずの自分の姿も、
登場人物のひとりとして見えていることもありませんか?
過去記事の◆「スピリットはひとつ」で、これについて書いてます。
引用するにはちょっと長いので、記事へのリンクを貼りました!
今回の記事と併せて読んでみてください☆
「私」とは何か、どんな存在かについて、
ブログでお伝えしていることが理解しやすくなるかと思います。
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