BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

個を体験するというギフト

今日の記事では、意外な本が登場しますよ!

このブログを読んでいる方に伝わっていたらいいなと思うのは、
私が書いていることは「二元論(二元的なものの見方)」ではないよ、ということです。

これまでの記事で表現してきた中で、
そのことが自然と理解されていたらうれしいのですが。

多次元的、複眼的な見方が身近な私にとっては、
「多にしてひとつ」ということや、

平面的な思考にかたよると陥りがちな、
「あれか、これか」ではないところを伝えたいんですね。


私たちが「人間」という体験にフォーカスしているとき、
意識が認識できる限界というものは、あると思います。

ですから、精神世界にありがちな「至高」の価値観には注意してほしいのです。

これがすべてだ、という錯覚から自由になり、
未知に対して心を開き、好奇心を認めることは大切だと私はお伝えします。

自分がどんな「枠組み」を信じているかを知ることも大切です。

そして、ときには崩壊を受け入れる。
それがすべてではないのだと。

そのように目を開いて見続けるなら、
「これで終わり」ということは、やはり存在しないと思いますのでね。

☆☆☆

そんな前置きにも関連して、今回のテーマは「個を体験するというギフト」。
この本を引用しながら書いていきます。↓

ムーミン谷の仲間たち』 

新装版 ムーミン谷の仲間たち (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の仲間たち (講談社文庫)

 

キャラクターグッズなどで親しまれているムーミンですが、
ムーミンシリーズの小説を読んだことはありますか?

私は、小学生の頃よくハードカバーで読んでいたのですが、
大人になってから改めて文庫シリーズを読んでみて、驚きました。

なんと奥深いストーリー、世界観なのだろう。
深く、味わい深く、それでいて子どもにも読めるような物語として、
こういう表現ができるのだなぁ、と。

優れた語り手は、作品の中で、
書かれた言葉を越えた概念を伝える、浸透させることができるのですね。

その中でも、今回ご紹介する本はきらりと光る短編揃いの1冊です。

ムーミン谷シリーズの中で一貫して感じるのは、
それぞれの個に寄り添い、どのあり方も尊重する際立った眼差し。

たとえば、この本の中の、「春のしらべ」の22ページ。
※私が持っているのは新装版ではない文庫なので、ページ数は、ずれているかもしれません。

スナフキンが、名前をもたなかった「はい虫」に名前を考えてあげた後のこと。

スナフキンも、はい虫も、ムーミンたちもみんな私たちのいうところの動物ではなく、人間でもなく、あえて言葉にすれば精霊みたいなものです。
人間の登場しない世界に対してそんな定義も野暮ですが。)

家にかける、しらかばの皮の名ふだを持ったはい虫が、
再会したスナフキンにそれを見せながらこう言います。(太字は私による強調。)

「すてきでしょ?みんながそういうんですよ。」

「とっても!じゃあ、きみは自分の家をもつんだね?」

「そうですとも!ぼく、かあさんの家をでて、
あたらしい家をつくりにかかったんです。
なんてすばらしいんだろ!
ね、わかるでしょ、ぼくはこれまで、
そこらをとびまわるときによばれる名まえをもっていただけなんです。

そりゃ、あれやこれやのことを、あれこれと感じたけれど、
すべては、ぼくのまわりでただおこっているだけで、
そんなものは、みんなくだらないことだったんです――。
そりゃたのしいことも、そうじゃないこともあったけどさ。それがね、あなた……」

スナフキンは口をはさみかけましたが、はい虫はそれにかまわず、
なおもつづけました。

ところがいまは、ぼく、一個の人格なんです。
だから、できごとはすべて、なにかの意味をもつんです。
だって、それはただおこるんじゃなくて、
ぼく、ティーティ=ウーにおこるんですからね。

そして、ティーティ=ウーであるぼくが、
それについてあれこれと考えるわけですからね。
――ぼくのいうことが、わかりますか」

「わかるよ、わかるよ。よかったねえ」

☆☆☆

それから、これは本の中のまた別のものがたり。
「目に見えない子」 154ページから。

ほんとうはすきでもないくせに、自分のせわをしていたおばさんから、
ひどくいじめられて姿が見えなくなってしまった女の子ニンニの話。

ムーミンたちと暮らしながら、
だんだんニンニのからだが見えるようになってきます。

ですが、ニンニは何をするにもただおつきあいでやっていて、
遊ぶことを知らないのです。
(引用した箇所では、見えない子ニンニは服と足まで見えるようになっています)

☆ここから引用(太字は私による強調)☆

コーヒーをのみおわると、三人はそろって、川のほうへ、あそびにでかけました。
ところがニンニだけは、なにひとつできないことがわかりました。

彼女はうなずいたり、ぴょこんとおじぎをしたりして、こっちのやるとおりに、
いっしょうけんめいにつきあいました。
それはもちろんとてもおもしろかったのです。

でも、ニンニがただおつきあいでやっていて、
すこしもおもしろがっているのでないことは、すぐにわかりました。

「走るのよ、走るのよ、あんたは走れないの?
それともあんたは、はねることさえもできないの?」
と、ミイはいいました。

ニンニのほそい足は、いわれたとおりに、はねたり走ったりしました。
でも、それからまた彼女は、両手をだらんとさげて、たちどまってしまいます。

銀のすずから上のからっぽの服のあたりは、
おかしいほどたよりなげに見えました。

「そんな人があると思って? あんたには、命ってものがないの?
鼻をピシャンとぶたれたいの?」
と、ミイはどなりました。

「ごめんなさい」
と、ニンニはおとなしくいいました。

「この子はあそぶことができないんだ」
と、ムーミントロールはつぶやきました。

「この人はおこることもできないんだわ」
と、ちびのミイはいいました。

それからは、ニンニのそばへよっていくと、こわい顔をしていったのです。

「それがあんたのわるいとこよ。
たたかうってことをおぼえないうちは、あんたは自分の顔はもてません」

(引用終わり)

物語を全部引用することはできませんので、
ここでは結末を簡単に書いてみますと……

ニンニがムーミンママをまもろうと、はじめて心から怒ったのをきっかけに、
ニンニの姿はぜんぶ見えるようになったのです。
ムーミンママに迫ったかに見えた危険もまた、錯覚だったのですが 笑)

怒った後に、今度はニンニは、心から「おもしろい」と笑うことができました。

☆☆☆

個として自分を体験できるということは、
創造主からあたえられたギフトなんです。

「個がない」という体験は、ゴールなわけではないんです。
(むしろそれがどちらかというとベースなわけで。)

個を究めることと、全体性を生きることは、矛盾しない。

たとえば、あなたが子どもに、
とても面白く有意義な遊具を与えたとして。

子どもが、
「しょせんおもちゃなんだよ、こんなの!」
と、堪能せずに放り出しちゃったらどんな気分?

一方で、遊びながらおもちゃがほんとうに自分だと思いこんだら、
遊びに没頭しすぎということになるでしょうか(笑)

特定の顔を持たないもの(普遍性)が、顔を持つという体験をやっている。
あなたは、あなたを通して表現される、あなたの顔を大切にしていますか。

それは常に変化するものだけど、ひとりひとりに与えられた、
カスタムメイドのカラーもあるんですよ。
それがどんなに愛しい作品か、わかる?

全体性の入れ子(ホログラフィックな)構造の中で、
個の自主性は尊重されています。

それが無いと、創造は、せまく閉じた小さい円をえがくイメージ。

あなたの「揺れ」もふくめて、すべてがexpand、
作品がひろがる要素、豊かな創造性の一環なんですよね。


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