タイトルの「絶望世代」は、他のところでも使われている言葉なようですが、
私としてはこの記事を書くにあたり、
自分たちの世代について浮かんできた言葉だったので、
ここではその意味で使っていきます。
そして、多分に私個人の話になりますのでご了承くださいね。
私はふだん、年齢で人を見るということはしませんが、
それでも世代ごとのテーマというか、カラーみたいなものはあると感じます。
そこで自分を含めた世代を「絶望世代」と書きましたが、
どの世代にも、希望も、絶望もあるわけで、また個人差もあるわけで、
そういう意味では「この世代はこうだ」と言うことはできないのですが。
今回の記事では、ある見方による私のつぶやきに、おつきあいください。
☆☆☆
「絶望世代」と表現してみた、私の世代がどういう風だったかというと。
思春期頃に、すでにバブルははじけていたけれど、
「ゆとり世代」と言われる少子化にはまだ遠く、子供の人数は多かった時代。
公立ではクラスの多いマンモス校があったし、
いたずらに激しい受験戦争があって。
進学校にすすむと、当たり前のように有名大学が受験先になる。
だけど、そういう大学に入って、先にあるものは何?
……私は、高校で1年間アメリカ留学していたときに、
英語がうまく使えなかった反動か日本語のすばらしさに目覚め(笑)、
大学では国文学をやろうかな、なんて思っていたことがありました。
それか、人の心に興味があるから心理学?なんて思ったこともあったけれど、
本などを読むと心理学には何か大~きな違和感があって。
それよりは精神医学や、脳について学ぶ方がまだ面白そうでした。
でも、それは本で読んでいて面白いレベルで、
私は理系でなかったので現実的には却下しました(笑)
ちなみに学生時代の私は、色々個人の事情があって、
他のことに苦しみ、気が散っていたため、勉強熱心ではありませんでしたが、
持ち前の好奇心から身についていた知識の多さ、直観力などなど、
自分の特性によって、受験などではいい成績をおさめていました。
そのため大学受験のときも、難関といわれる大学ばかりずらっと合格し、
自分でどこに入学するかを選べる状況となったのですが、
(↑ 高校の先生は驚いていたと思います。
受験する予定の大学を見せた時点で、「お前…」と、絶句していましたから。
すべり止めとかを一校も選んでなかったんです 笑)
結局、早稲田大学の第一文学部に入り、
(今は文学部は文学部ですが、当時は夜間の第二文学部というのがあったので、
区別して第一文学部と呼ばれていました。)
……中退しています。
気持ちとしては何とかがんばりたくて、
両親に頭を下げて休学をしたこともありました。
そして復学を試みたけれど、だめでした!
理由、事情はあります。ただ、大学に入ってみて、
自分の人生の興味がそこに無さすぎた
というのも、大きな要因になったと思います。
やめることを本格的に決めたとき、
本当にもう私にとって、そこには何も無いなぁ
と、実感していたんです。
今はどうか知りませんが、当時の早稲田大学には、
正当な理由と認められて退学した場合、
その者は以後8年間、再入学が可能
というシステムがありました。
そこで私は一応、その面接を受けてから退学することにしました。
退学に反対していた両親の気持ちを考えたのもありました。
(結局戻りませんでしたけど……)
その面接の際。
私は担当教官に、その当時わずらっていた症状※を説明し、
(※摂食障害。◆「私の過去の歩み」の記事もご参考に。)
正直に自分の気持ちを述べました。
その教官は、もちろん、はじめて会う人です。
スーツを着た、中年の男性教官でした。
私は形式的に受けてみたものの、
自分をわかってもらおうとか、面接で承認してもらおうとか、
特に思っていませんでした。
ところが、その教官の方は、じっと私の話をきいた後に、
意外なことに、自分の娘さんの話をされたのです。
彼の娘さんは、私と同じ症状で苦しんでいると言ったのです。
そして、私の目をみて、静かにこう言いました。
「あなたがこうして、自分で、自分の人生を選択したことをうれしく思います。
私は、応援しています。」と。
(「本来なら私は、大学で学び続けるように引きとめる立場にあるけれど」、
ということをおっしゃった上で、こう言ってくれたのでした。)
それが、今でも胸に残っています。
あの方の娘さんが、すでに症状から自由であることを願います。
☆☆☆
私は……ブログの過去記事の中にも、
自分の体験した治癒のプロセスをときどき混ぜ込んでいる通り、
そういう症状は、もうすっかり、ありません。
完全に治るまでは、中学生のときから十数年かかり、
出なくなったと思っては、ぶり返したり、
もう一生この症状とおつきあいするのかも、と思ったこともありました。
おもしろいもので、ひとつの症状がただずっと続くというより、
摂食障害がしずまると、その奥にはウツ状態があったり、という具合でした。
医療機関や薬は逆効果、セラピーすらあまり私の助けにはならず、
私にとっては、「自分とは何か」を自分なりにしっかり思い出すことが不可欠で、
この現実より大きなリアリティーに目を向けることが、
一般に否定されがちな世界を体験している自分を認めることが、
本当の治癒のきっかけになりました。
そういう内容は、このブログに書き続けている通りです。
☆☆☆
世代に話を戻しますと、私たちの世代は、
生まれたときから大体、物質的には平均的に豊かになっていたけれど、
心がどこかに置き去りになっちゃった時代というか。
そういう空虚さを、見るともなしに見てきた、
肌で感じてきた世代だと思うんですね。
よく、悩んでいる人に、
「衣食住が満たされているだけでありがたいと思いなさい。
その日食べるものも無い、生きるのが精一杯の人たちに比べたら…」
なんてお説教をする人がいますが、
その理論は変だと思うわけです。
それだと、物質的に満たされた宮殿の王子様であれば、
苦悩は何もないというのでしょうか。
その人、その人の立場や背景、内面、個性があるのに、
それぞれの苦しみを比べることが間違っているんです。
……こういう世代にとって、
その前の世代の価値観の延長で、
「とにかくお金を稼げ」
「年収○○を目標に」
「物質的なものをモチベーションにしろ」
なんて言われても、無理なんですよね。
そもそも、金=豊かさ
が嘘なことを、生きてるだけで、その時代の空気で、
感じてきちゃった世代なんだから。
物質的にリッチでウェルシーなら幸せ、
なんて方程式、はなから信じてないのです。
セッションで私より若いお客さんがくると、
さらにその傾向に拍車がかかっているのを感じます。
彼らの多くが、好きなものはあっても、ムダに物を追いかけたりはしないですね。
そしてまた、今ふれているこの「絶望世代」は、
精神世界や宗教、哲学が
「我は無い」
なんて言わなくても、先にアイデンティティ・ロストの感覚を持ってるんです。
それゆえ、ただ生きてても内面的リアリティーにフォーカスせざるをえない。
のんきで平凡、苦労知らずの極楽とんぼに見える人が、
心の中で地獄を見てきたりしてるんだよね。
☆☆☆
個人の見解ですけど、精神世界・スピリチュアル分野で見られがちな、
「悟りビジネス」は、今後廃れていくと思います。
それから、「誰か(聖人やグルや特定の人物の型)」を目指す教えも。
これからの世代に、多分それはどんどん受けなくなると思うよ。
私は、これからの時代は、
「個」の色を際立たせたままの調和
に焦点を当てることが大切だと思っています。