こんにちは。
今日はひさびさに雑記など。
色々あって、心は静かなのですが、
さまざまな考察?が、ときどきひらめきみたいにフラッシュしています。
☆☆☆
私は、昔から、人の内面を「わかってあげたい」と、思うタイプでした。
「わかってあげたい」という表現は、
「知りたい」という言葉よりも、印象はよくないかもしれないけど、
「わかってあげたいな~」の感じがそのまましっくりきます。
こどもの頃から、
映画やドラマや漫画、何かのストーリーで、悪役が出てくると、
その人の心の奥をわかってあげたくて、
ただ「悪」とされていることがせつなくて、
代弁したいような気持ちがありました。
そうなるまでに至った理由(背景)や、
その人の心の底にある気持ちや動機など…。
なので、ときどき、夢の中でも代弁者というか、
亡くなった人のメッセージを伝える役をやってしまうのかも、ですね。※
(※そういったエピソードをおさめてあるカテゴリはこちら★霊的な話★)
大人になった今、
スピリチュアル・カウンセラーとして活動している動機も、
そういうところにある気がします。
ただ、これが、プライベートな現実の人生で、
自分にとってプラスなのかどうかは微妙なところです。
平べったく、「楽なこと」がプラスなんだよ、という評価ではかったら、
確実にマイナスなのでは、と思います。
他者について、そんなこと知らなくてもいいんだよ、無関心になりなよ、
と思うように頑張ってみたこともありましたが、無駄でした。
自分のそういった要素については、けっこう真剣に分析してきましたが、
これはどちらかというと、
「人間を知りたい」
というやまない要求に近かった気がします。
全般的に人の内面に興味があったんですね。
あるときには、
「自分が、わかってほしい人だから、他者をわかろうとするのか?」
という角度で、考えてみたこともありました。
それもあったのかもしれませんが、
昔はともかく、最近はだいぶ、そこは抜けてきてるんですよね。
途中まで、(自分のことを)「わかって!」で、ごちゃごちゃすることはあっても、
最終的には、
「私が、私をわかっていればいいか!」
という感じで、スコーンと抜けてしまいます。
これは、
「霊的な目線」に確信を持つようになってから育った部分かな。
「すべてを見ている目線」に気づくと、
そこに対する隠しごとは、不可能ですしね。
自分のすべてを知っているところが「ある」と知っているから、
自分のすべてを、必ずしもここで他者に証明しなければとは思わない。
他の人を「説得」してまで、自分をわかってもらわなくてもね…
それぞれの事情も背景もあるし、
通じ合うときは、あまり色々説明しなくても、自然とわかったりするし、
という気持ちなんですね。
では、「わかってあげたい」の背景には、
人を「信頼」してないから、その中身を知りたいのか?わかりたいのか?
…これについても考えてみました。
場合によっては、この見方も、いい線いってる気がしました。
が、やはり、「純粋な興味」の部分が大きいな~、というのが、否定できないのです。
私たちはひとりひとり、
ある意味で、「個人の王国」を持っていますね。
人と関わるということは、異文化交流みたいなもので、
コミュニケーションの努力は必要になると思うんですよ。
「共通」で使っていると思っている認識も、言葉も、
ぜーんぜん、中身は違っていたりするから。
(その中身がお互いに近い感じだと、違和感なく、
そのままズレに気づかないかもしれないです。)
色だって、同じ色を見ているかどうかはわからないですよね。
そうした違いはあることを前提に、「橋架け」をするのが、
かつての私の主義だったのもしれないのですけど。
この「ギャップ」、「お互いの思っていることが、伝わり合わない世界」
というのが、より本質的な世界ではありえないことなので、
貴重な体験というか、ただ興味深いのかもしれないですね。
スピリットとしての自己にとっても、
多角的な見方を身につける、いい訓練なんだろうな、と思ったりもします。
物質世界にフォーカスしなくなって、肉体のある体験が主じゃなくなっても、
創造性はひろがっていて、色々なバラエティーがありますので…
ここでそういった多角的な見方や、その中で共存するスキルを身につけたら、
別の“舞台”でも生かせるんじゃないかな、と。
…こう言うと、ちょっとぶっ飛んだ話に聞こえるかもですが、
自分の狙いがそのへんにもあるような気も深まっている、今日この頃です。
★スピリチュアルカウンセリング(対面、スカイプ、電話)★
ブログランキングに参加しています
クリックありがとうございます