BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

非二元について、次元、階層の話

おはようございます☆

今朝は、さっそくまたお絵描きに向かいそうな勢いだったのですが、(*゜▽゜ノノ゛☆

ふとインスピレーションがやってきまして、この内容を書くことにしました。



実はこのテーマ、


スピリチュアル系の仕事に今も従事していたり、過去そうだったり、の、

私の周囲の親しい友人達とは、前々から話題に出ていたことなのです。



(でも、そのおしゃべりはオフレコというか、私は書き渋っていました。)



それは…

スピリチュアルな思想における、

「非二元論」、「アドヴァイタ」の、現代的なブームというか。


ブームというのも語弊があるかもしれませんが(汗)

それはともかく、その中身、

それをうたっている人たちがおっしゃっていることへの、

違和感といえばいいでしょうか。



私は個人的に身近な存在、彼氏である人が、

非二元論やアドヴァイタに熱意を持っている人ですので、

ある時期、


それらへ感じる「違和感」についてと、

自分のものの見方はどうなのか、再確認することへ、

しっかりと向き合うことになりました。



私は、自身の伝えている世界観を、

このブログの最初からずっと、ときどきご説明しているように、

「一元である(二元論ではない)」としていますが、


私が今まで見聞きした「非二元論」や「アドヴァイタ」の解釈には、

同意することはできません。かなり違うと、思います。



そのように、突き詰めて自分の中で考えた経験があるからか、

ただ単に今、ブームになっているからなのか、


ときどき、私のブログをお読みいただいた方や、

スピリチュアル・カウンセリングをお申込みくださった方からも、

非二元論、アドヴァイタに関連する疑問が寄せられるようになりました。


それに加え、今朝のインスピレーションです。



これまでは、おひとりおひとりに対し、私なりにお答えしてきましたが、


今回は、もしかするとこの話題にピンとこない方、

あるいは、ものすごくピンとくる方、

どちらの方が読んでも、わかりやすいように書こうと思います。


☆☆☆


突然ですがみなさん、

ドラえもんは存在しますか?しませんか?


この質問に、あなたなら、どう答えますか?



ドラえもんは、この世に、

「私たち」のような形では実在していないかもしれませんが、


ドラえもん」といえば、

みなが共通のものを思い浮かべる“合意”がある限り

それはみんなの心の中には、存在する
と言えますよね。




では、私たちのこの世界を、

仮に、別の次元から見てみるとします。


すると、今生きている人生(この体験)は、

やはりそのような「合意」に基づく、

ヴァーチャル・リアリティだとも言えるのです。


フィクション(作品)と言ってもいいです。


しかし、ドラえもんが皆の心に経験としてあるように、

今のこの人生も、経験としては本物です。



そして、「次元」は、

空間としての「あちら」や、

時間としての「別の時」にあるのではなく、

同時にあるので


死んだらあちらに行ける

とかではなく、


今も同時にここにあるし、

私たちは今も同時に「それ(実在)」なのです。

(これが一元ということです。すべてひとつ。

ひとつにして多である。)


☆☆☆


この人生(世界)や、個としてのアイデンティティーが、

「ある」とか、「ない」とかは、

「ある」の拠点をはっきりさせて初めて、定義できることなのです。


ドラえもんは、私たちの階層から見れば非現実ですが、

ドラえもんの世界にもし、入ることができれば、現実です。


こう見た場合、ドラえもんの世界は、

私たちの現実と階層が違い

私たちの現実に対して、非現実である
と、言うことができます。


ここがポイントです。

(私は、この理解に混乱が生じているのでは?

と、感じることがあるのです。)



そして、「非現実」の中でも、

作品(フィクション)のドラえもんの中に、アイディアとして

実在(上の階層)の、作者が生きているのがわかりますね。



ここから…

さぁ、想像してみてくださいね。(b^-゜)


もし、作者が、自分の作品であるドラえもんの世界に、

入り込む(登場人物として参加する)ことができたとします。


作者は、自分の創った作品世界の中のリアリティーを、

登場人物になりきって、楽しむことができます!(*^-^*)b



このとき、特定の登場人物だけに同一化すれば、

現在「自分は○○○○(名前)という人間である」

と信じている私たちと一緒です。


自分が作者であるということを知っていつつ、

特定の登場人物としての体験を楽しんでいれば、

それはすごい遊びに参加しているけれども、

自分が誰かという自覚が、同時にあるということです。



ただ、このとき、もし、


「私はこの私ではないのであって、全部がフィクションだ!

登場人物も、この世界も、無いのだ!」

ということに、こだわっていたらどうでしょう?

(こだわる時点で、そう信じてないということになりますが…)


と、同時に、一方では、

「物語の内容は、神によって、すべて決められているんだ…!」

と、言っていたらどうでしょう?



その物語は、誰が作っているの?


いきなり出てきた神って誰のこと!?という話になりませんか。


これでは、アイデンティティー(私は誰かの自覚)が、分裂しています。

ここがおかしなことになっていること、わかっていただけますか。


☆☆☆


今回の記事のしめくくりに、

私があるときみた、半端な「明晰夢」のお話をします。



私は、夢の中で、夢だということに気づいていました。


ところが、それに気づいた私は、

「どうせ夢だし!」

という気分になりました(夢の中で、そう発言もしてました(;´▽`A``  )


その気分で、

よーし、これをやろう!と思うことをやってみたのですが、


いい加減な姿勢で挑んだだけあり、

自分の夢なのに(そう気づいてるのに)、

それなりの結果にしかなりませんでした…。orz



集中力というか

意図というか

エネルギーの方向づけは、

夢だと気づいている夢の中でも必要だし、大切なんです。



何かが上達したり、

遊びを、真剣に遊ぶときの楽しさを、

みなさんは知っていますよね。


私がお伝えしたいのはそういうことなんです。



★スピリチュアル・カウンセリングのお知らせはこち
「個人セッションのご案内」


ブログランキングに参加しています!
クリックどうぞよろしくお願いしまーす(^-^)/

精神世界ランキング

いつもありがとうございます☆(*^▽^*)

サイトポリシー
Copyright©2011 BEATS AND LOVE All Rights Reserved.