今回は、私たちが「死」と呼ぶ、意識のフォーカス切り替え♪にまつわる話。
これについて、最近の気づきをまじえて、お話しします。
☆☆☆
私は、「死のこと」についての連載記事でも書いたのだけど、
昔から、自分が死ぬということについては、恐怖がなかったのですね。
ただ、心底怖れていたのが、「別離の恐怖」。
自分の愛する人たちがこの世を去って、
私はまだこの世界に残って、生きる…それは耐えられないと思っていた。
あるときを境に私は、
「存在(Being、源)」としての自己だとか、
そこから見て「死はない」ということとか、
その認識ははっきりとあったのですが。
正直言って、この別離の恐怖は、だからといって無くなってはいなかったんです。
このブログをよく読んでくださっている方はご存知のように、
私はときどき、亡くなった後にそのことに気づいてない方や、
死後も何らかの事情があって、エネルギーがあるところで留まっている方を、
「ご案内」するような体験をしています。
そういう体験があっても、(むしろそれらの体験は特例という感じで…)
亡くなる=その人のパーソナリティとはお別れなのかな?と、疑う気持ちがありました。
亡くなった方からの「メッセージ」を受信することはあっても、
それは思いがけず受け取ったうれしいメールみたいなもので…。
その経験を全体に含めて理解することができてはいなかったんですね~。
スピリチュアル、精神世界の中でも、死後については、色々なことが言われていますね。
私が、これは間違いないと知っているのは、
私たちはたった今、この瞬間も多次元にまたがる「存在」であって、
「霊」という呼び方をするならば、私たちは今も「霊」だということ。
ただ、「身体や、物質という体験にフォーカスを絞り込んでいる部分」のみを
“体験している”と自覚している・認めている(笑)ので、
当たり前のように、人間だと思っていられる!
あなたの気づいていない部分も含む「自己」は、
物質世界を体験しているたくさんのパーソナリティだけでなく、
物質に依らない多種多様な存在も同時体験しているわけです。
その上、それらの個別の存在それぞれが、相互に交流しながらも、
「独自性」を保っているっていうのがすごいところ!!
ただ、大きな「意識」のあり方に気づいたとき、わりとよく耳にする考えが、
「個」は幻想であり、存在していない、
死んだら大いなる源に還ってひとつになるのだ
…みたいなもの。
最近はっきりわかったことは、実はこれについて!!
今あなたが体験しているパーソナリティ(個性ある自己)、
今のあなたと認識しているあなたも、なくならない、ということです。
どの自己も、存在し続ける。
…補足しますと、私は、存在するとかしないとか、
「リアル」とか、「リアルじゃない」という言い方はどう用いるか、
それはどういうことか…というのを、今まで何度か説明してきました。
(☆最近だと、この記事がそうです◆「非二元について、次元、階層の話」)
ここのところ、大切なので、しっかりお伝えしたいのですが。
あなたの意識のフォーカスが変わったとき、
より大きなアイデンティティーとしての自己に気づきやすくなります。
ほんとは今でもそうできるんだけど、
この現実体験にフォーカスできなくなるとまずいから、
自分でちょうどよいように絞り込んでるのだと考えてください。
したがって、そのような認識になったとしても、
今「自分」と認識している自分が消滅したり、
パーソナリティや存在そのものがなくなるということは、ないのです。
ただね…こんな風に想像してみてください。
あなたが「存在」として広い視野、より広大な意識で活動するときに、
たとえばこの人生でいう「過去」のように、
「この特定の人生での自分」というものをあまりリアルに感じなくなる、
ということは起こり得るでしょう。
思い浮かべてみてくださいね。
たとえば、あなたの過去に、幼少期や、幼稚園時代がありましたか?
小学校で一緒だったみんなのことは覚えていますか?
中学、高校時代はどうでしょう?
思い出すと、それらは「あって」、存在していたのだけど、
どれも、間違いなくあなただったのだけれど、
今のあなたとは違う、という風に感じませんか?
そして、そこで交流した人々についても、
中には、今でも仲良い人もいるでしょうし、
そのときの人々同士の関心が続いていれば、集まることもあるでしょうけれども、
あなた自身が、もうそこに関心がなければ、
「あのときの誰々が存在しなくなった(いなくなった)!」なんて感じないまま、
お互いに存在はしていると知っていても、
ただ興味が無いので、それぞれの人生を歩んでいるものですよね。
お別れという意識より、会おうと思えば会える…という感じが、あると思います。
その上、あなたの記憶の中では、思い出は生きているし、
これまで全部の経験を現在の自分に「活かすこと」すら、できますよね。
そのように、
あなたがより大きな自己のアイデンティティーにフォーカスしているとき、
人間として体験した多様な人生を、
今の私たちがこうして感じているように体験し続けるのではなく、
他にも関心ごとがあるので、自然とそこから意識が移っていく…という感じです。
もうひとつ、たとえを挙げます。
あなたが、たくさんの劇に出演してきた俳優だとしましょう。
「配役」のどれもを覚えていますが、あなたは「配役それ自身」ではありませんね。
でも、そうしたければ、
「ねえねえ、19世紀ヨーロッパの、あの劇、よかったねぇ~」
「ああ、私は○○○○っていう役をやってさ~」
「そのときあなたと関わった○○役の、私だけど」
…みたいな感じで、俳優たちの間でも、
様々な「合意の劇」の中でのアイデンティティーを用いて、
コミュニケーションができること、想像できますよね??(笑)
「劇」も、「劇中の登場人物」も、「消滅」はしないでしょ?
そうしたければ、そのときのキャラクターを用いてコミュニケーションをとることもできる!
あるいは…
自分の一部でもある、ある「個(キャラクター)」それ自身の、
多次元での成長を見守り、サポートする存在の方に意識を移すこともできちゃう。
つまり子供を産むように、より大きな自己の観点から、
あなたはあなたの個を育てているんです。
子育て、じゃなくて、個育て!!
笑って~!!(笑)
なんだかうひゃーってなってきました?
あなたの存在の多次元性と、無限性、感じてきた??
そんなわけで、私はまるで啓示のように、ある日このことにハッと気付いたとき、
「別離の恐怖」がはじめて癒されました!
ああ、なくならないじゃん!どの自己も!
うわー、なんだ、本当に、舞台が切り替わるだけだね。
そうしたければ「この個性や記憶」を使って、
絆を作った愛しい存在たちと交流することもできちゃうんだ、と。
☆☆☆
もしもあなたが、死による、別離の恐怖におびえていたら
その悲しみに胸を痛めていたら、どうぞ思い出してください。
何も、なくならない。
ほんとうに、なくならない!
今も、あるように
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