BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

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こんばんは!☆ヾ(^∇^〃)


近頃、これから記事に書こうと思っていることと、

いただくコメント内容のシンクロがかなり多くて、興味深いですヾ(@^▽^@)ノ


今日の内容は、昨日の記事へかうこさんがくださったコメントと、

共通した要素を含んでおります♪星



タイトルは、「カテゴリ」 です。


☆☆☆


私たちの理性は、いつのまにか色々なものをラベル付けして、

カテゴリ分けして把握しています。えんぴつ



なので、実際に体験したり、

それについて深く考えたことがなくても、

「知識」の面で知っていることは沢山ありますよね。



たとえば、「海」。


浜辺や浅瀬から離れて、

ひろいひろい海のさなかには、行ったことがなくっても、


また、その海中が実際のところ、

どんな風になっているかをじかに体験したことがなくても


私たちは聞いたり、見知った情報から、

「海とはこういうもの」と、頭で理解しているのです。



ほんとうは、全体像なんてまるで知らず、

その部分の、部分しか知らなくても。


なんだかまるで、把握しているような気分でいられるのです。



よくよく気をつければ、

わかったような気になっているけども実際はわかっていないこと、

そんなことだらけですね。バラ



だけど、理性は「カテゴリ分け」すると、理解した錯覚を起こして、

もうすっかり安心していたりするのです。



こうして、ブログでお伝えしていることは、


心で対話したり

内から湧いてくる叡知であったり

体験してわかるもの



それを思い出すためで、


ある意味では、「カテゴリ」が存在しないことを、

思い出すための呼びかけとも言えるんです。キラキラ☆



☆☆☆


そういえば、このテーマに関連して、

前々からブログに書いてみたいなと思っていたエピソードがありました。


「それぞれの文化の良さ」についてです。



過去記事を色々とご覧になった方はご存知かと思いますが、

私は高校生の頃、アメリカ留学してホストファミリーと1年暮らしていたり、

社会人になってからも、海外の講師と仕事をしたりしており、

海外との縁はわりと多い方かなと思います。



アメリカ留学していた頃は、これまた過去記事にちらほら書きましたが、

「アメリカ生活を謳歌して、アメリカナイズされちゃいました!」

というようなイケイケ留学生生活とはほど遠く…(^▽^;)


はっきり言って、トラウマもだいぶ作って帰ってきました(笑)

かえって、「日本の良さ」や、「日本語」が好きになってしまったほどでした!



その後、大人になってから音楽への情熱のためだったり、

お仕事の都合上で、アメリカ文化や英語に対して改めて向き合うことになって、

今ではまったく、その当時とは、認識も変わっていますが…。ぺこ



それにしたって、そんな私ですら、

アメリカ生活の「土台」や「心構え」として教えられ肝に銘じていたことがあり、


(実際に自分で現地で経験しながら身に付けたこともありましたが、

それ以前に、出発前からすでに、

“留学生の心得”として言い伝えられていたことも多かったのです。)



こんなことを意識し、心得ていた時期がありました。↓


日本ではすぐにぺこぺこ謝ったり、

「すみません」、「ごめんなさい」という言葉を日常的にずいぶん使うけれど、

それはおかしいのだ。


本当に謝罪したいとき以外は、たとえば「ありがとう」だとか、

別の言葉に置き換えられることも多いのだから、気をつけた方がいい。



また、人にものを差し上げるときなどに、「つまらないものですが…」

家の中に招くとき、「散らかっておりますが…」

などなど、謙譲の文化というのがありますが、


それも、海外では通用しないので気をつけるように言われていました。



なのですっかり私も、

自分がそういう言葉を使ったり、そういうメンタリティーでいることが

「後ろめたいこと(わるいこと)」のように感じてしまった時期もあったのです。



それが解放されたのが、バリ島を体験し、バリを好きになってからでした。



本当に趣味の程度で、インドネシア語よりも先に、

私はバリ語の本を買って勉強するようになったのですが、

(バリではインドネシア語公用語ですが、バリ人同士の日常はバリ語)


そこで、バリ語にも尊敬語や謙譲語があること、

(バリの場合は、身分の階級があった歴史に基づいていますが)

それから、言い回しとして、

「すみません」

「○○しかなくて、ごめんなさいね」

のような表現が、日常の決まり文句で出てくるとわかったのです。



ああ、日本と似ているなぁ!

と、思うと同時に、

旅行の際かかわった現地のバリの人が、日本語を使いながらも

そういう表現(○○でごめんね~)と話すのを聞いていても、



それがあらためて、自然というか…

そこの文化に根差しているというか…


そのやわらかさ、調和した感じを感じて、


そうだ、日本も日本の文化があってこそ、の表現だったんだよね。

それでいいんだ、と…。



留学がきっかけで身に着けた

「ごめんね」「すみません」等の言葉を気軽に使うことへの余計な束縛

が、とけたのでした!(*^▽^*)



☆☆☆


たとえば、


この言葉はいけない とか

こういう態度はわるいもの とか、


私たちはカテゴリ分けしたがりますが、


それらだって、各文化への理解や状況の背景なしには、

本当のところは何もわからないんですよね。



そういう中身を知らずには何もジャッジできないのに、

うっかりすると私たちは自分の観念をもとに結論づけてしまいます。



たとえば、


「ここの国の人たちは子供連れに親切だ。だから心があたたかい。

こちらの国の子供連れへの扱いはつめたいから、さむざむしい国だ」


という見方があったとして、

それだって、ある国では歴史的に子供を多く増やしたい土壌があったから、

それに沿った価値観が出来上がった、とか…、

発展の過程でこういう出来事があった、とか…、


細かく見ていけばそれぞれの背景が色々とあるはずで、

表面だけを見て、安易な価値判断は、できないわけです。



それは、個人に対しても同様ですね。



私が小学生の頃、新しく就任した校長先生が、全校生徒に


「職員室に入るとき、みんな『失礼します』と言って中に入るが、

そんなことをしてはいけない! よく考えてみなさい。

それは、『これから失礼なことをします』と、宣言しているのと同じだ。

べつに失礼なことをしないならば、先に『失礼します』と言うべきでない。」


と、やや怒りながら演説をして、


それまで生徒は職員室に用事があると、入口のドアをコンコンとノックして、

「失礼しま~す!」と、挨拶して中に入るのが習慣だったのですが、


その校長先生が就任している間はそれができなくなって、

どうもぎこちなくなったことがありました。(^o^;)



もしかすると、

「習慣的に使っている言葉をあらためて考えさせる」

という機会にしたかったのかもわかりませんが…、


ちょっと違和感をおぼえる出来事だったなぁと印象に残っていて、

今回の、


異文化を引き合いに出して

「ごめんなさい」、「すみません」という言い回しを評価することや、

謙譲の文化を否定することと、ちょっと似ているな、
と思い出しました。



身近なところに、意外と盲目的な「カテゴリ分け」はあります。

「観念」に気づくことは、そんな仕組みに気づくことでもありますにっこり




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