こんにちは!
だいたい2週間ちょっと、私はいままで「ヴォイド」という感じの時期にいました。
ヴォイドは何もない状態とか、空っぽの状態と訳されているかな…
でもそれだと、私の感じているところを表しきれないな。
いつかどこかの記事で書いたのですが、この場合のヴォイドとは、
たとえば、あるステップから次のステップに移行する途中、
一時的に視界が見えなくなるような状態です。
らせん階段や登山など、たとえは何でもいいのですけど、
きっと皆さんもご経験がありますよね。
昇ってる途中に、一時的に風景が見えない期間があり、
そこを抜けるとまた、次の景色が見えてくるんです。
その間、「内面的な作業」が何かしら起こっていることが実感できるのですが、
それが何だ、とは、はっきり言えないのですね。
でも、感じてはいるのです。
それはぽっかりした状態であると同時に、
まさに、何かを整理している途中のカオスのようでもあります。
しばらく続いたそんな状態を、ようやく抜けつつあるな、という今、
私は自分の日常をはじめ、このブログでもますます、
どこにフォーカスしたらよいのかがはっきりしてきたように思います。
そこでの不可欠なポイントは、すべてを自分の意識の世界として見る
ということなのです。
ここからここまでは自分の意識がつくっているけど、
この先は、自分の意識とは関係ないとか、そんなことは無いんです。
今回のテーマは、「敵に見える相手はあなたを助けてくれている」です。
☆☆☆
どなたの心の中でも、その度合いはともかく、
自分が「敵」のように見なしてしまう相手が、いたことがあるでしょう。
(現実の知人か、そうでないかすら、関係がないものです。)
それがはっきりと自覚している強い思いであっても、
あるいは、アグレッシブな・攻撃的な思いではなくて、
「あの人さえいなければなぁ…」
「なんであんな人がいるんだろう…(疎ましいな)」
という思いであったとしても、
積極的にせよ、消極的にせよ、
心のどこかで、あなたはその相手と「勝負」や「競争」をしています。
そんなことすべてがバカバカしくなって、
そんな思いにかられる自分もいやになって、
「ただ無視する」
「相手やものごとを切り離す」
という作戦に出たこともあるかもしれません!(`・ω・´)ゞ
でもね、エネルギーの向く方向がどんなベクトルにせよ、
あなたが心を動かした(気になる)他者の姿というのは、
あなた自身の中にある何か、なのですよ。
「外」に、その要素や引き金があるのではなくて
(それが他者の絶対不変な属性としてそこにあるのではなくて)
あなたの中にあるのです。
それをあなたが「見た・体験した」ということは、
あなたは自分の内側にある何かを見てみたい、確認したい、
そう思って「現実というスクリーン(鏡)に映し出した」のです。
ですので、元である自分の心を眺めてみてはいかがでしょうか。
☆☆☆
たとえばあなたが「敵」と感じたり、そう見ている相手を、
蹴落とすようなことをしたとしますよね。
それが実際の行動であれ、心のはたらきの中であれ…
何らかの「勝ち負け」に「勝つ」のは、一時的には気分がいいでしょうが、
そこであなたが蹴落としているのはあなたの一部に他ならない!のです。
これは、「懲罰(罰が下される)」という観念とは、関係ありませんよ。
そういう心理的な含みではなくて、実際的なお話です。
あなたが見ている他者は、あなた自身のあらわれなのです。
あなたがその対象をただ自分として…
「自分の側面」としてよく見るならば、
自分が何を信じていて、何を伝えようとしているかを、
そこから知ることができるはずなんです。
そのようにしてあなたが、
自分の意識が発信している内容への理解を深めれば深めるほど、
あなたの現実は(そのままでは見えなかった、)自己のあらゆる側面を統合して、
調和したひとつを、現実というキャンバスに表現していくんです。
あなたが自分を理解するため、
自分自身で見えていないところに気づくために、
「敵」というよそおいであらわれてくれた他者のことを、
他者の姿をとった「あなたの意識の側面」だと心得て、
その真の価値を認めてください。
それは本当に、あなたを助けるために形をとって現れました。
あたかも「その人(あるいは物事)によって」
問題や苦難が与えられたように見えるときですら、そうです。
今回のお話は、「なすがままになる」だとか、
「ただ耐える」と言うこととはまったく違います。
自分に対して「懲罰的になる」ということとも、違います。
いかなる場合にも、自分と離れた外があると信じるのではなく、
(そう信じているときは、眠りこんだ状態です)
自分の内にあるものをよく見る、ということなのです。
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