BEATS AND LOVE

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ハンガーゲーム2と「この世界」

昨夜、映画「ハンガーゲーム2」をDVDで見ました。

前作「ハンガーゲーム」を見たときから、引き込まれて、

続きが気になっていたので、いつ2が出るかと楽しみにしていました。

「ハンガーゲーム2」
 

ハンガー・ゲーム2 [DVD]

ハンガー・ゲーム2 [DVD]

 

今作でも完結はしなかったのですが、私は続きが見たいな!


なぜだかこの「ハンガーゲーム」の世界、

なつかしいというか、共感できるというか、引き込まれてしまう。


予告でみたときから、

主人公が妹の身代わりとして志願して、ゲームに出場する、

…というところですでに気になっていました。


私はふだん、「殺し合い・バトルもの」や、

サバイバルゲーム」に興味はないのですが。

ときどき記事にも妹のことが登場するように、

姉妹のきずなの話には共感しやすく、弱いのです。

(ところでこの映画には、「ヴァイオレンス」で刺激を与えようという意図は、

ないように思います。もっと人間の本質を問うているように思う。)


実際に内容を見てからは、映画の中のあの世界が妙に心に響いて、

私にとっては現実感があるというか、

悲観的な意味じゃなくて、既視感があるのです。


私、実際にどこかでこういう世界を見たことがあるかな?

というような…。


それは、他の映画にもよく見受けられる

「未来が、階級に分かれたり、貧富の差のはげしい差別社会になっている」

という要素に、共感しているわけではないのです。

ただ、

キャピトル(首都)の、やや倦んでやけっぱちのように贅沢三昧の人々や

ハイテクな暮らし、きらびやかなファッションやメイク、

リアリティーショウ(番組)を、共感しながら見物する人々…


こういったものがどうも「架空」とは思えなくて。

(ある意味では今もこのような構造はあるわけで。)


でも、それを批判的にネガティブにとらえて私は見ているわけじゃなくて、

たとえばキャピトルの人々の衣装やメイク!

(男女とも化粧していて、あざやかで、個性的な格好をしている。)

主人公カットニスの「炎の少女」としての演出のされ方!

そういうのは心底楽しんで見ていられます。

(カットニスの衣装&メイク係「シナ」の役は、レニー・クラヴィッツ

それがまた、はまり役でとってもいい感じです!)



ああいうファッションや色合いの世界を、私は知っているなぁ、なつかしい!キラキラ☆

という感じで、その色彩感覚や装いが、

この現実からすれば「クレイジー」でも、とっても好きなんですよね~。


あと、原作者は、

「実際の戦争」と「リアリティー・ショウで行われている個人間の競争」

これをテレビのチャンネルで交互に見て、原作小説を思いついたとか。


エピソードはこちらを参考にしました↓

「ハンガーゲーム Wikipedia」


こういうことを考えるにつけても、

あの世界がとても「SF」だとか「架空」だという風には思えません。


ちょうど後日、記事に書こうとしていたテーマですが、

このような二極性って、どっちも本当には、幸せじゃないんだよね…。


キャピトルの人たちとカットニスたちは表裏一体なんだもの。


とはいえ、くり返しますが、

「悲観的な、これからの未来予測」としてではなくて…

ああ、ああいうリアリティもどっかにあるんじゃないかな、

という「記憶」みたいな印象なんです、私にとっては。


そして、ダブルミーニングとして、

「今の世界」もある意味ではそうだな、という気持ちもある。

だからカットニスたちのこれからが気になるのかもしれません。


映画の中でバトルフィールドとなる現場は、

設定されたドーム内でありながら、

自然の中…森だったり、湖や海があったり、ジャングルがあったり、

色々な動物も、食べられる実も、人を襲う動物たちすらいるのですが…


それらは、「番組制作側」の作っているヴァーチャル・リアリティで、

タッチパネルや機械で全部を操作している。


日没や天候もそう。地形も。

はい、ここに行き止まりをつくって、道はこっち、雷の出現、

ここで猛獣を登場させて…とかも全部操作している。


そうやって「出現させた」効果は、

実際のバトルフィールドの中では正真正銘の「本物」なのです。


ホログラムなどではなくて、中身のつまった実際の物です。

それで、人は死にもします。


また、そのリアリティの中で「闘って」いても、

たとえその中の「勝者」になっても、結局、

“ゲームを作ったもの”には痛くも痒くもない。


「ハンガーゲーム2」では、それに気づいて動いていくような展開でした。


私はここで、

「悪意ある誰かに私たちは支配されていて、それを見破らなければならない」

ということを伝えたいのではありません。(^^ゞ

(うっかり、そうじゃないの?と思う方が万が一いらしたら、

ブログのほかの記事をゆっくり読んでみてくださいな!)


ただ、この構造自体はすごく共感できるというかね、

たとえば、私はさきほどブログに付属している「なう」で、

あの世界のつづきが気になる という旨を、つぶやきました。


現に私は、それが「映画」だとわかっていても、

感情移入したり、

その世界の行く末を案じたりすることができます。


「地球の体験」についても、本当はそのようなものではないでしょうか、

と、いうことです。


「作品」だからといって、おざなりにすることはできないし、

そこで何が起ころうと本当の自分(存在)が“無傷”だからといって、

「私」が、「作品の中の世界」に愛情をもたないと言えるでしょうか??


私が、ちょうど映画を見るように、

「外」からこの世界を見ている存在だとして、

もし、この世界を愛してしまったら、

この世界の「中に」入るというアイディアも出てくるのでは?

と思うのです。


私はそのようにこの世界を愛し、情熱を持っている自分がいると感じます。


そして、「観客」側という選択にとどまった者たちも、

私がちょうど、この映画を愛して続きを待っているように、

「中へ参加している者たちの展開」を、別の立ち位置から、

応援してくれているのだと思いますよ!


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