BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

災難の中にある光

こんにちは~。


きのうの記事「二元性を超えるということは?」に、

興味深いコメントをいただきまして、ご回答した後に、

どうすればもっとわかりやすく説明ができるかな、と考えていて、

浮かんできたのがこちらの記事です。


コメントのやりとりの補足みたいな感じにもなっているので、

まずはそちらも見ていただいて。(*^.^*)


テーマは、

「災難の中にある光」 です。


☆☆☆


昨日の記事の内容のように、

いつも主体は「私」であり、

起こっている現実と、「私」を分けないということ

(すべて、私が選んでいると知ること)

というお話をするとき、


たとえば、

世の中に起こっている悲劇…

数々の、理不尽な出来事。

そういう状況に関わっている人たちの心情を考えたら、

そんなことは言えないのではないか!


…と、思う方もいるかもしれません。


私自身が、昔はそうでした。


自分の現実は自分がつくっているなんていうアイディア、

いやな考えだな、

本当につらい状況にいる人の気持ちを知らないから、

そんなこと言えるんだろうな、
なんて怒りを感じていたくらいです。


自分が「被害者」になることも、たびたびありました。


もちろん、自分のことでなくても、

色々な理不尽さに胸を痛めて、

その上、自分の力のはるかに及ばないことを思い知っては、

無力感にさいなまれました。



今では、そうは思いません。^^


でも、私の経験のほんの一例をあげてみます。

比較的、世間一般的なわかりやすい例をあげてみます(`・ω・´)ゞ


☆☆☆


たとえば昔、私が実家から通勤して会社勤めしていた頃のこと。

父も、母も、それぞれが別々の旅行先に旅行に出た日のことでした。


私が会社から帰宅すると、家が空き巣に入られていました。


今夜は私ひとりの留守番になるはずなのに、

帰ってきてドアの鍵を開けたら、誰もいないはずの家の中から、

ドアガード(チェーンの代わりに付いていた、棒状のもの)が

おろされていて、ガコン!と、ドアが開かなくなってしまいました。


「えっ?誰かいるの?」 (゜□゜)

おかしいな、誰もいるはずがないのに…


私は最初、途方に暮れて、状況がまったくつかめませんでした。


でも、家の中に入れないのでは、次の日も会社だし、

もう夜だし、困ってしまいます。


なぜ、ドアガードが中から下ろされていたのか、

そこは深く考えないまま、とにかく中に入る手段を見つけようと思い、

庭を伝って家の周りを見てみることにしました。


家族がうっかりベランダの鍵でもかけ忘れていたら、

中に入れるかもしれない、と期待して。


すると、ベランダはしっかり施錠されていましたが、

家の横、キッチンのそばの窓ガラスが割れて、

かけらが地面に散乱していることに気づきました。


このとき、ようやく、「空き巣に入られたのだ」と、わかったのです。


犯人は窓から侵入して、家の中を物色している間、

外から帰ってきた人にドアを開けられないように、

中からドアガードをかけたようです。


この時点では、中にまだ犯人がいるかもわからなかったので、

慌てて近所の人の家にあがらせてもらい、

そこから警察に電話をかけさせてもらって、警察を呼んで、

それから何時間も経ってから、やっと私も中に入れました。



中に入ると、二階建ての家ですが、

よくもまぁここまでできたな、

と息をのむくらい、家の中はめちゃめちゃでした。

どの部屋も、上も下も、まんべんなく。


それなりに時間をかけているのがわかります。

その頃の我が家が、大体何時から何時くらいまで留守か、下見して、

不在を調べた上で犯行に及んだのではないかと後で言われました。


父や母の置いてあった現金や貴重品、

(父は何年間もつつましくタンス貯金をしていて、

それが相当貯まってきていたのを盗まれたと後で知りました(><;))

母が珍しく買って大切にしていたブランド品のバッグ数点の他に、

私の、宝飾品としての価値はあまりない(けれども気に入っていた、)

雑貨屋さんで買ったようなピアスやネックレスなどのアクセサリーも、

ごっそり盗まれていました。


こんなものまで!?という感じでした。


国内旅行だった父はもう現地の宿に着いてしまっていましたが、

母は、海外に行こうとして夜の便で空港にいたので、

私の連絡を受けて、旅行をキャンセルして帰ってきました。



それにしても、私が痴漢など他の事件にあったときもそうですが、

地元の警察の人は、あきれるほど態度に問題がありました。

(痴漢事件のとき、警察によって被害者は二重に被害を受けるのね、

と、疲労困憊しながらこりごりしたことがあります。)


「どっちが犯人の立場なのか…」とぼやきたくなるくらい、

私や、家の者の方が、延々と続く取り調べを受けているようなもので。

(見てわかる通り、家の中が床が見えないくらいとっちらかっていて、

何がどこにあるか、あるのかないのかもわからないのに、

その場で「盗品は総額でいくらくらいになりますか?」とか…。

家が建ったときの、正式な見取り図を出せ、とか…。

取り調べのみならず態度も、色々色々。

それも当時の“私の現実”の一環ですが。)


やっと解放されたのは、ほぼ朝になってからでした。


侵入されてやぶれた窓のそばのキッチンで、

入ってくる風に寒いねと言いながら、母とお茶を淹れて飲みました。



そんな、家族にとって、

多大なインパクトを与えた出来事であったのですが。


今になって振り返ると、あの当時、


空き巣事件のみならず、「侵害」と呼べるような出来事が、

自分の身にも、たて続けに起こっていたのです。


色々ありましたが、体調面でも、そうでした。


そして、夢でもはっきり、そういう忠告を受けていました。


その頃も夢は鮮明で、内容は覚えていたので、

私は「侵害への警告」を理解していたのですが、当時は、

他者だとか、外のエネルギーからの侵害と、とらえてしまったのです。


そして、起こった出来事にすっかり「被害者」の立場から、

恐々としていました。


人から薦められて、エネルギーヒーリングとかも受けたなぁ(笑)

そこでまた、エネルギーを他者から奪われていると指摘されて、

やっぱりそうなのか!って、自分の観念を強化していた…。


☆☆☆


今ならば、それが、

自分が自分を見る機会だという促しを受け取っていたのであり、

どこかで、自分が自分を侵害していないかどうかを調べることだ、

とわかります。


このブログを読んでいる皆さんなら、

そうすることがなぜ必要なのだか、わかりますよねキラキラ☆ (*^▽^*)


自分と切り離されて起こる外の現実は、ありません。

それを起こしているのは自分です。


「他者」が関わっていたとしても、

「加害者」がいたとしても、

「被害者」の存在なしに、「加害者」が存在できるでしょうか?


二元性を超えて見てください。



あなたと切り離された(無関係の)他者など、いないのです。


あなたという意識の中で、あなた同士が、

別の側面のあなたを使って、

自分とコミュニケーションしているというイメージを持ってみて。キラキラ☆


ただ、

起こった「出来事」そのものの意味は、ひとつではありません。

色々な要素が重なってそれが起こります。


諸々の要素を合わせて、

そのとき一番起こるにふさわしかったのが、その出来事だった、

ということです。


その意味で、現実とはいつもパーフェクト、ちょうどいいのです。



あなたにとっては「災難」であったとしても、

それが起こるなりのパーフェクトな理由があるわけです。


とはいえ、ここにも注意してください。


「必ず、その出来事でなくてはならなかった」とは、言えません。

他の選択肢もありました。



現実に他の選択肢が起こるには、それに見合うだけの、

意識の中身(別の観念や心構え)が必要になるということです。


起こるできごとは、意識の「結果(あらわれ)」ですから…。



それから、もうひとつ。

出来事自体は、いいとか悪いとかの評価はできません。


自分がそれをどう生かすか、です


私たちにとっては、起こる出来事そのものについても、

何がより平和的か、そうでないか…

などの違いは、出てくるでしょうけれども。


「いつも、出来事はその根底にあるものをお知らせしてくれる。」

そのシステム自体は平等なんです。


☆☆☆


私たちはたやすく、「自分と離れた現実」という錯覚を起こします。

行政が…司法が…国が…あの人たちが…

理不尽なものは、「外」にあると思っている。


でも、誰かが理不尽に扱われたようなシステムがあったとして、

そのシステムを作ったのは誰でしょう?

ひどい戦争が起こったとして、その戦争を作ったのは誰?


人間ではないでしょうか。


何か、人と関係ない、

「システム」なり「国」なりという独立したものがあるのではなく、

それをつくっているのは、支えているのは、人です。


たとえば国の、軍の、命令で…

戦争をしなければならない、爆弾を落とさなければならない、

という場合でも、その判断をくだすのも人だし、

それを行う(実行する)のもひとりひとり、人間なわけです。

(機械を使うとしても機械を作るのも、人間。)


そしてそれは、あなたや私とちっとも違わない人々です。

あるときは私かもしれないし、あなたかもしれないし、

家族や恋人かもしれない。


「悪人」なんていない、

「生きるため」や「愛する者を守るため」という考えが、

人間を駆り立てる。


二元性の中では、「攻撃するもの・されるもの」

自分がどちらの立場にならないとも言えない。


だけど、ひとりひとりが、「外にあるルール」ではなく、

自分の内側の、本当の気持ちにしたがうようになったら?


力はいつも「外」ではなく、自分の内にあるとわかったら?


「生きるためにしかたなく」という観念(BELIEF)を持つ代わりに、

自分は、自分の現実をつくれる、

自分の人生を生きられると知っていたら?



人間の存在の本質は、創造性や愛でできています。

好んで、人を虐げたい人は、本当は存在しない。


どこかに、「そうしなければ生きられない」

という固定された観念があって、

それを信じているときに、まず、自分が自分を殺すんです。


内なる声を消してしまうんです。


「自分の意識」の中に、そういう対立観念をなくすこと、

それを信じる必要がないと教えてあげることが、大切です。


そして、現実にあらわれた「災難の中にある光」を見ようとすれば、

それを単なる「運・不運」や人のせいとしてではなく、

自分のものとしてしっかり眺めれば、


あなたの中にある観念が何なのか、

苦しみのもとになっていたものは何なのかを、

教えてくれますよ。ハート



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