こんばんは~
季節はすっかり春めいてきて…
日の出もとても早くなったし、鳥たちの動きにも変化が。
外で見かける鳥の顔ぶれと、鳴き方がすっかり変わってきたことから、
もう春なんだなぁ~としみじみ思いましたよ。
そして、いま記事で連載しているような時代の人々は、
現代人よりももっと自然界の事象と一体になって暮らしていたんだろうなぁ~
なんて、思いも馳せました。
私は学生の頃、古文や和歌がけっこう好きだったのですが、
それらの作品を見ると、そのことがよくわかるのですよね。
記事上で今、話題の渦中にあるこのお方の句も…
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ」 (天智天皇)
百人一首におさめられていて、私はけっこう好きでした。
そのために私の中ではずっと印象がよかったのです、天智天皇。
(今でも印象が悪いというわけでは全くないですよ。)
ただ、この歌を調べ直してみると、歌の受け取り方はちょっと誤っていたようで…。
歌の意味は、「秋の田の仮小屋の、その草の編み目が粗いので、
私の衣の袖は露に濡れ続けている。」なのですが、
「私」は天智天皇のことを指すのではなく、農夫のことだそうなんですね。
天智天皇が、農夫の目線で歌をよみ、
“農夫の辛さを思いやった歌”として、広まったそうです。
さて、そんな天智天皇(中大兄皇子)の話が☆昨日の記事☆では登場しました!
今回の話の流れで「乙巳の変」と「大化の改新」を見ていくと、
これまでの歴史の印象が↓
(例: 勢力を持っていた悪玉・蘇我氏を、皇子たちが成敗したぞ!的な…)
がらりと一変しまして、
ちょっと…中大兄皇子と中臣鎌足!?(°д°;)
と、驚いてしまうんですが、
以前も書いたように歴史をよい・わるいで判別はできませんね。
いつの時代にも、大胆な革命を起こす人はいるということですね。
また、聖徳太子は蘇我馬子?というお話を前回しましたが、
実は、蘇我馬子の長男で蘇我善徳という人物が記録に残っていまして、
名前に「徳」があることから、聖徳太子のモデル?とも言われています。
では、この善徳は誰なのか?ということなのですが、
蘇我馬子=蘇我入鹿=蘇我善徳
という説もあるそうです。こちらにも載ってます↓
◆蘇我善徳 ウィキペディア
いずれにせよ、「乙巳の変」では、
そのように国の中心であった蘇我氏を討ってしまったのですから、
まさに、「そのとき、歴史は動いた。」という感じですよね~。
ここで少し背景をご説明しますと、
皆さんご存知の天智天皇、天武天皇ですが、
学校で習う歴史では、天智天皇が兄、天武天皇が弟と伝えられていましたよね。
でも、本当は、兄弟ではなかった可能性もあるようです。
少なくとも、資料をもとに調査していけば、
天武天皇の方が年上だということがわかるそうです。
まず、2人の父だと伝えられている舒明天皇が、実在でない可能性があり…。
◆舒明天皇 ウィキペディア
この時代の系図があてにならないということは、これまでもお話ししてきました。
すると、天智天皇と天武天皇の関係や、それぞれの親は誰か?
ということも不思議になってくるわけですが…
中には、天智天皇と天武天皇は全く血の繋がりはない、
という結論を出している方もいて、それも興味深いのですが、
ただ、私が思うには、天武天皇は「大海人皇子」と呼ばれているので、
海人族と密接な関係があったのではないかと思います。
ですから、もしもそのように、2人に血の繋がりがなかった場合、
まったくのよそ者の中大兄が、海人族の蘇我氏を殺してクーデターを起こし、
その王の座についた!ということであったなら、
天武天皇との間の一種の「同盟関係」など、築けなかったのではと思うのです。※
(※天智天皇の娘は、4人も天武天皇に嫁ぎ、
そのうちの一人は、後に即位する持統天皇です。
また天武天皇も自分の妻であった額田王を天武天皇に嫁がせています。)
そこで私が感じたことは、
2人は異父兄弟であったのだろう
ということです。
なぜ、異父兄弟と思ったかというと、こんな感じです。
当時は蘇我氏が大王→ 舒明天皇は架空の天皇である→
「乙巳の変」は中大兄が自分の身内を殺した事件ではないようなので、
中大兄が蘇我氏ではないのは自明。
→中大兄は天皇を父とする子ではない。
かといって、先述のような天智・天武間の一種の「同盟関係」を見ていると、
大海人(天武天皇)にとって、
クーデターを起こした中大兄は、全くの他人ではなかった模様…
というわけで、片親だけの血の繋がりだということがひらめいた上に、
大海人は海人族(大王の系統)に関係がありそうだけれども、
中大兄の方にはなさそうであるというのに、
大海人はクーデターを起こしたことを咎めていないどころか、
在位して天武天皇となってから「日本書紀」を作らせたり、
古事記の元型になるものを作らせたりと、
もし蘇我系統の人間であるならば、祖先の歴史を打ち消すようなことをしている。
…ということは大海人も、生まれだけで見るならば、
元々は、そこまで絶対的な大王の継承権をもつ立場にはなかった。
なので、「現在の自分を中心に、嘘の系図を作り直す必要があった」。
これらをまとめると、
2人は同じ母から生まれており、中大兄の父と、大海人の父は違う。
共通である母親の側には、大王の血統は入っていない。
しかし、大海人の父は、大王の血統にいくらか関係がある。
…と、考えるわけです。
壬申の乱では、多くの海人族が大海人皇子の味方をしたと言われています。
☆☆☆
中大兄の父は百済の王族であったとする説があります。
つまり、中大兄は百済族の王子。
天智天皇が百済救援に熱心だったのは記録に残っています。
そして、「乙巳の変」、「大化の改新」で重要な相棒となる、
中臣鎌足(藤原鎌足)も、渡来人であると言われています。
(中大兄と同じ百済出身という説もありますが、私は違う国という説に共鳴。)
鎌足は、後の藤原氏の祖となる人物です。
そして、さらに…!
夢がきっかけで、以前注目した神社のひとつ、
奈良県の「飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)」なのですが…
あのときは、神社の奇祭「おんだ祭り」だけに目を引かれてしまいましたが、
後日、こんな情報にも行き当たりました。
飛鳥坐神社の東へ10分、その場所は…
◆「大原神社」
藤原鎌足産湯の井戸もあるという、藤原鎌足の生誕の地なのでした!
夢は、「武内宿禰、すめらみこと」→「蘇我氏、奈良県のあすか…神社」
と、回を分けて、じょじょにキーワードをくれたのでしたが、
なるほど、これもまた繋がってくるのだなぁと思いました。
なぜなら、藤原鎌足の二男は、
古事記・日本書紀の監修、最高責任者である藤原不比等だからです。
これまで見てきた記紀のあれやこれやは、
藤原不比等が一枚噛んでいたことは確かだと思います。
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