BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

観察するものとされるものは、同じもの

今日の東京はぽかぽかのお天気。

外の空気にふんわり沈丁花の匂いが混じるこの季節、

晴れると気持ちがいいですね☆


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今日の記事なのですが、できたら2つ書きたいと思ってるんですよね。

…いけるかな。

そのひとつめが、こちらです。

「観察するものとされるものは、同じもの」

2月に開催したワークショップ、

「意識の中にある現実~あなただけのオリジナルビューポイントを生きる」や、

数日前の記事、「ここにはいない☆」を通してなお、

まだ伝え続ける必要を、私なりに感じているポイントがあります。


スピリチュアル、精神世界、哲学、物理学…

入り口のジャンルは何であっても、

「観察者」の視点が「観察される対象」に影響を及ぼす、という概念は、

とても一般化してきていますよね。


ですので今日のテーマも、

うんうん、あれのことね!

という感じで、ひとまず馴染みはあるかもしれません。


それでも、情報をただ知っている、理屈をわかっているというのと、

存在ごと、まるごとそれを知っている・生きているというのとは、

違うんです。


情報として知っているだけの状態では、

日常とか、自分が「俗」と思っている生活の方に、それを落とし込めないのです。


ちょっと鋭い言い方になってしまいますけれど、

「お高い思考」を持ち、「学者さん、哲学者さん」みたいな態度のときと、

「そんなのかまってられんわい」という日常モードとが自分の中で分かれていて、

「本音と建前」みたいにうまく使い分ける…というのは、ありえないんですね。


本当にわかっていたら、それを生きていたら、「使い分け」は存在しないのです。

聖と俗、みたいな概念も、生じません。

そのレベルで、「わかる」ためのお話をしたいのです。

☆☆☆

便宜上、ブログやセッションでもよく「内側」という言葉を使っています。

でも、これもね、本当は、「内側」という言葉は適切ではありません。

私たちは今も、意識の「中」にあって、その外はないからです。


私たちは、

「自分以外のものがあるという概念による基盤のもと、外に世界を見る」

という経験にフォーカスしているので、

自分の意識のことを「内側」と捉える方がわかりやすいのです。

…本当は外に見ているものも「意識の内」なのに、そうとは思えないからですね。


その視点に気づけば、

「観察するもの」と、「観察されるもの」との間に、分離はないのです。


外と内を分けて、あたかも違うもののように経験しているので、

「主観」と「客観」も生まれますが、それは見せかけにすぎません。


人間の歴史の、比較的最近の出来事であるにもかかわらず、

私たちは「科学!」の洗礼を受けるあまり、

「科学的思考や論理」というものを重視しすぎの傾向にあります。


「客観的に考える!」

「エビデンスを求める!」

「再現性を求める!」

…しかし、「私」の主観の影響を考慮していないのであれば致命的です。


主観による影響をまったく度外視できるわけは、

観察するものと・されるものが分かれていると、固く信じているからです。


想像してみてくださいね。


あなたが、大変な心のショックで青ざめたとき、

すうっと指先まで冷えて、指が紫色になっても、

「指の紫色変化の実験・観察」をして、

この現象を自分の心と切り離して指のことを調べよう!とは思わないですよね。


…それは、当たり前なくらいに、“自分”と体の繋がりを認識しているからですが、

現代の「体」の「科学的な研究」においては、そのようなこともなされます。

「臓器」や「器官」や「細胞」が、

「私」と離されて「物体」や「機械」であるかのように眺められるのです。

☆☆☆

一歩すすめて、

観察者は、観察する対象に影響を及ぼす!

このことは、物理学でも認められている。

だから「わかっている」と考えます。


でも、ここでもまだ、「観察するもの」と「されるもの」に距離があります。


離れたところにある、未知を観察する。私は観察者である。

そんな感じでしょうか。


これがもし、

「自分のことなのによくわかんないなぁ」という目線であれば、話は別なのです。

そういう自覚があれば。

「自分から離れた、○○(粒子なりあらゆる観察対象なり…)」を、観察している、

そう思っている間は、肝心なところに気がついていません。


そしてまた、精神世界や宗教でも、まま起こりそうな感じですが…

そういった命題をすべて超えたという体裁をもって、ただ、

「何も無い。ゼロなんだ」と言いくるめてしまうのも、本質を覆い隠してしまいます。


その定義付けからは、記事の前半でお話しした

「日常への落とし込み・それを生きること」は、どうなるでしょうか。

虚無主義か、運命論的な安楽の中に心を置くか。

☆☆☆

あなたの体験している現実(世界まるごと)を、まるで自分の体のように、

「現実体」ととらえてみてください、というお話を、以前もしましたね。

それは決して、比喩ではないのです。


これを説明するときに、私が度々用いつつもやはり、

わかりやすいと思うのは「夢」のたとえです(笑)


自分の見ている夢と自分とを、切り離せないということや、

どんな壮大な夢もすべて、夢主である自分の中で起きているということ
は、

日常の私たちにとっても、明白なことでしょう?


そしてね、こうも考えてみてください。

私たちの、この特定の個人の自分の、この人生の日々の中でも、

たくさんのことが起きていて、たくさんの選択肢があって、

緻密にフォーカスしたら気が遠くなるくらいの、複雑性が見て取れます。


でも、これはほんのほんの、一部です。


意識の中にあるひろがりがどれだけのものか。

ほんのほんの一部は、「すべて」にひとしく存在価値があり貴重なのだけど、

もし、「それだけ」がすべてだと思ったら、いかに多くのものを見えなくしてしまうか。


あなたは、信じるものを、見ます。

私たちは、文字通り、自分の信じないものは「見えなくして」しまうのです。


…次のもうひとつの記事は、ふつうの夢の話なのですが、

タイムリーというか今日書きたい内容なので、続けて作成する予定です。

ひとまず、ここまでで送信!

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