BEATS AND LOVE

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それぞれの中庸

外を歩いたら、桜吹雪でした~。

かわいい黄緑色の葉が出て、花は散り始めているこちらです。


きのうの夜と今朝は、以前記事でご紹介したトマト煮込みを食べました。

該当記事はこちら↓

ほくほくお野菜の煮込みと自然栽培のためにできること?

beats-and-love.hatenablog.com

今回は家に味噌がなかったので、

味付けは、前から私がしていたようにコンソメベースで仕上げたのですが、

トマト煮込みに大根が合うっていうのは大きな発見だった!と再び思いました☆

教えてくれた妹に感謝。


トマトは、いつも完熟ホールトマト缶を使っています。

今回の具はにんじん、大根、鶏むね肉、大豆、ショウガ、エリンギです。

大豆も妹からすすめられて使うようになったのですが、トマト煮込みに合います。


私はこれに、炊いた雑穀ごはんやふつうのご飯を添えて食べるのが好きですよ♪

スープごはんという感じで、中にごはんを入れながら食べてもおいしい(°∀°)b


さて、今日の話題は、「それぞれの中庸」です!


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「中庸」と聞くと、みなさんはどんなイメージ?


言葉自体を辞典で調べてみても3つくらいの意味があるから、

イメージする内容も、人によってけっこう違うんじゃないでしょうか。


私はこれを今回、バランスとかミドルポイント(中間)、という意味で使うのだけど、

「ちょうどよさ」だと思っていただければわかりやすいかと思います。


こういうことを考えるときとても大切なのは、

それが「外によって定められる基準」なのではなくて、

ひとりひとりの内にある感覚的なものだ、
ということです。

これはたとえなのですが…

人の人生を“年齢”という観点で見たとき、

ある年代あたりのことを「中年」、英語でもミドルエイジと言いますが、

私たちはそれを当たり前のように日常の中で使っていますよね。


それ自体が特定の年齢を示す言葉になり、

中年という言葉を用いる際、私たちはその合意を受け入れているわけですが、

もしこれが人生全体の中での「中ごろ」という意味だったらひとりひとり違います。


なぜなら、いつ死ぬかは人それぞれ違うからですね。


各人生の「終わり」を知って、そこから振り返ってはじめて、

ああ、あの頃が中ごろだったのだなぁ

と、わかるんですよね。


その意味では、短い人生だった場合には「中間」も早くに訪れるし、

とっても長い人生だった場合には、その人の「中間」は他の人よりゆっくりです。

そして自分の「死ぬとき」を知らない限り、何がミドルなのかは本当はわかりません(笑)


こんな風に認識していくと、「中庸」や「バランス」も、

ひとりひとり個々に違うものだということが明らかになります。


それは、ある人の内的な状態を知らなければ定められないのです。


たとえば、本人にとっての素と感じる状態、ナチュラルな状態が、

その人の文化圏の世間の基準からすると、「内向的」と評されるような人の場合。

その人の活動や表現における「バランスポイント」は、

自然な状態が「外に向かって活動的」である人とは、同じではないですね。


ある人にとっては「そのくらい…」と思うことが、

ある人にとっては最大限にがんばっていることもある。


そして、それは人生の中の多様な分野や側面において変化するものでもあり、

ひとりひとりの個人内でも、かなり複雑に感じ方が違うものなのです。


もちろん、人間には本当は、

「私はこうである」

と、カッチリと定められるようなパーソナリティの枠はないのです。


ですから、個人の傾向というのはいくらでも「変化」する可能性はあります。


その一方で、「あえてこういう私を体験する!」と自ら選んだ「土台」、

傾向や持ち味のようなものがあることも事実です。


その持ち味があることこそが、

「ナチュラルか・アンナチュラルか」

それぞれの心の奥底で感じる基準になると思います。


こういうことを知ると、「人と比較する」ことの意味のなさがわかりますね。

同じ物差しでは、はかれない私たちですから、

「それぞれの中庸やバランス」の方をこそ大切にしたいものですね☆


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