今回のテーマは、「シェアする自由、しない自由」です。
何かに対して「自由」というとき、
「~する自由」があるのと同時に、
「~しない自由」もあるからこそ、自由と言えます。
ところが私たちは、「しない自由」を過小評価していたり、
「しない」ということを後ろめたく思ったりすることがあるのです。
今日の空☆
中でも、今回は「シェアすること」について取り上げます。
「シェアする」は今やネット上などでもよく聞く言葉になりましたが、
共有すること、分かち合うこと、を意味します。
何をシェアするか…どんな状況でか…その内容は様々ですが、
基本的に、「シェアする」ということには、
ポジティブな意味が付与されがちですので、
「シェアしないこと」に後ろめたさを感じたり、
「しない自由」を選択してはいけないような圧力を感じたりすることも、
あるのではないでしょうか。
たとえば、ごく日常的な瑣末な例で(笑)、でも、
私の親しい人たちと話題になったことがあるトピックなのですが、
誰かと一緒に食事に行ったとき…
注文するメニューを「シェアしたい人」がいると思います。
自分の頼んだものを自分で食べる、というのではなく、
それぞれの頼んだものを一緒に分け合おうよ、というスタイルです。
それがたまにのことで、ちょうど好きなものが沢山あったから、とか、
みんなでシェアし合うスタイルの料理だったから、とかではなく、
「毎回、頼んだものはシェアしたい!」というタイプの人もいますよね。
その方が色々なメニューを一度に食べれるから…と。
一方で、
「自分の注文したものだけを食べたい」と、いう人もいます。
あれこれ食べると気が散るし、自分の吟味して選んだメニューを、
落ち着いて、集中して食べたい…とか、
その日はそれだけをお腹いっぱい食べたい!とか。
食事のスタイルひとつ取っても、その好みも、都合も、さまざまですよね。
でも、このような「違い」に、もし、
「どちらの方が良いことである」とか、
「こちらの方が正しいのである」
という評価付けをしてしまったら、どうでしょう。
途端に、そこに「ジャッジ」が生まれますね!
こんなこともしてくれないあの人はケチだとか、
これが常識なのに、あの人はちょっと礼儀が足りないんだとか、
自分の信じている評価付けに基づく「裁き」が生まれるのです。
私たちはこういう裁きを、色々な場面で、色々な形でしてしまいます。
たとえばもっと内面的なことで言えば、
人の姿勢として「オープンである」というのは、
どちらかというと「良い評価」と関連づけて受け取られます。
隠し事がないとか、正直であることとかと結び付きやすいからでしょう。
一方で、「何でもオープンにしなければならない」、
「心の中のことや、日常に起こったことを人とシェアしなければならない」
と思うことで、苦しくなる人もいます。
苦しくなるということは、あなたの本心を否定し、
それと闘っているということですから、
「そうしなくてもよい自由」を忘れているか、
過小評価してしまっているのだとわかります。
自分の心がおのずとそうしたいわけでもないのに、
「オープンであること」を、「それが良いことだから」、
「そうするべきだから」と強要していたら、
自己肯定がどんどんできなくなっていってしまうでしょう。
本心とは裏腹になるからです。
人には、何かをシェアする自由も、シェアしない自由もあります。
両方が同じように認められるのでなければ自由ではありません。
「すべてをシェアしなければ」
「シェアして、わかり合わなければ(わかってもらわねば)」
と、もしも気持ちが乱れることがあったら、
ちょっと立ち止まって、あなたの心を確かめてみてください。
あなたの気持ちがそのように揺れるのは、
それが負担だからではないでしょうか。
何かに「義理を感じて」行動することは止めてください。
表向きがどうかということより、まずは、
あなたの内側であなたの世界を存分に受け止め、育んでいいのです。
そして、それを「シェアしたくなったときに、シェアしたくなった分だけ」、
「そうしたいと思える場所で」、表現するようにしてみてくださいね。
桜は、うちの付近は3分咲きくらいかな~。
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