庭では今、ハナミズキと藤が満開です!
藤の花を写真に撮ってみました。
こちらは、あたりが薄青くなっていく夕暮れの頃の藤です。
同じ藤、同じカメラなのにずいぶん雰囲気が違います。(*^▽^*)
今回は、「ふるまい方に囚われない」というテーマでお話しします。
何が正しいふるまいなのか…
どんな態度、言葉をとったらいい?
どんな行動をすればいい?
「ふるまい方を求められる苦悩」
これに陥ったことはありませんか。
あなたが、あなたのままでいようとすると…
そのまんま、自然にふるまおうとすると…
他者があなたに口出ししなかったとしても、
あなた自身の心の中で、「ストップ」がかかるのです。
これで正しいだろうか?
誰かの気分を害さないだろうか?
求められているふるまいと合致しているだろうか?
たとえば今回の地震のような出来事のときもそうです。
多くの方がそれぞれのやり方で思いやり、心配したり、
励ましたいと思っています。
それぞれの表現で、
「何が一番よいと思うか」は人によって異なっていても、
そして「何が結果として相手に役立ったか」ということの方も、
やはり人によって異なっていても、
「こうするのが正しい!」
「いや、こうすべきだ!」
と、1つの正しさを制定しようと争うことがあります。
○○は自粛すべきだ、
いや、かえってこういうときだからこそ、自粛しないでやるべきだ…
なぜか、「1つの正解」に統一しようとします。
でも、多くの愛の意図があること、
その「心の中にある動機」の方こそが大切で、
ふるまいとしてどう表れたかは、「副産物」なのです。
それをすっかり忘れて、
自分の価値観で「こうふるまうべき!」と定め、
「こうしているこの人は不謹慎だ!」と、それ以外の人を裁く。
そんな風にジャッジすることは、本当は誰にもできないのですね。
その「判定」の基準にあるのは、
自分の信じている考えや、身に付けてきた価値観で、
自分のそれらだけが「より良い」と考えるのはおごりです。
逆にいえば、
「Aさんのふるまいをちょうどいいと思うCさんがいて」
「Bさんのふるまいを心地よく思うDさんもいる」
という風に、それぞれのあり方に存在意義があるのです。
それを「統一しよう」としたり、
「自分と同じ考えでない者はおかしいのだ」
と、考えるとき、視野が狭まってしまっているのです。
多くの場合、物理次元の表現からは、本当の「意図」までは見えません。
すると、「無難にふるまう」ことが最も安全だという信念が生まれます。
私はそんな気はなかったのに、そんな意図はなかったのに、
他者と違うふるまいをしたせいで、批難をされた。
それだったら、無難に、形だけでもみんなと合わせたらいい。
そうすれば安全なのだから。
こんな風に、考えてしまうことはありませんか。
けれども、「みんな」という幻想に踊らされないよう…。
万人に受ける形なんてありません。
あなたが心からそう思っていないのなら、
あなたの共感しない「見本」にあなたが足並みを揃える必要はありません。
みんなが全く同じ行動をとらなくていいし、
そんなことをしていたらかえって、それぞれの役割が果たせなくなります。
あなたの存在価値に信頼を置いてください。
あなたには、あなたであることに存在意義があります。
その決意はきっと、あなたにとってときに「危険」とすら感じられるでしょう。
でも、あなたがあなたであるときには、一見孤独なようにみえても、
深~いよろこびや安堵を感じるでしょう。
あなたの表現を大切にしてください。
あなたの感じ方を無理に変えないでください。
それでいいのです。
☆☆☆
おまけのエピソードです。(^∇^)
今日の記事の第二部、という感じですが私個人に関することなので、
ご興味のある方だけお読みください。
今回の記事内容のきっかけは、ツイッターを始めてさほど経っていない私が、
大地震が起きてから「こういうときはどうするのが一番いいんだろう…」
と考えていたことに対して、与えられたメッセージでした。
ブログに書いた内容は、そこからさらに発展したものになっています。
たとえば、大地震があったその日、
本当に使う必要のある方たちがサーバーを使えるようにツイートを控える。
このことについては、私は何も迷いはありませんでした。
ツイッターを飛び交っているであろう災害時に役立つ情報についても、
私自身がとくに詳しいわけでないので、本当かどうか確かめるすべがないし、
また、多くの方が多くの情報をすでに拡散している状況でもあったので、
むやみにツイートするよりは何もしない、という結論でした。
ただ後日、状況が少し落ち着いてきてからのふるまいには悩みました。
こういうときは何がベスト?
ふだん通りに脳天気なツイートをしたら、
うっかり大変な状況の人が見ないとも限らないのに、申し訳ない?
でも、一方では、普通どおりにしてほしい、その方が元気になるから、
という声も見受けられるし…。
私もぐるぐると考えました。(影響力がとても小さいアカウントでも)
自分の「意図」よりも「ふるまいの正しさ」に囚われて。
マスコミでも「自粛」の是非が問われたり、していましたね。
でも…
今回の記事の元になった「メッセージ」を、答えとして心で受け取ったときに、
私は、あることに気づいてしまったのです。
いや、気づいたというより、「認めざるをえなかった」、というか。
知ってたんだけど隠そうとしたことと、しぶしぶ向き合った、というか。
私は今回一生懸命、「人々の気持ち」に共感しようとし、
(それだって、「もっとも見えやすい人々の気持ち」であるだけで、
本当は「個人個人いろいろ」なはずのですが、)
悲しんだり、心配したりという、わかりやすい感情に共鳴しようとしました。
自分をそこにあえて持っていく感じです。
ところが、その奥にある自分自身はというと、
その表層的な「胸を痛める」感覚を味わいながらも同時に、
動揺することができないでいたのです。
それは、自分が渦中にいないからでしょ!と言われたら、
それはもちろん言えることなのだろうと思います。
でも、それがメインの理由なのではないのです。
形あるものが壊れ、変化することや、
魂が体という経験から別の経験へ視点を移行すること(死)、
それ自体を、かつてのようには悲しめないのでした。
残された人々の気持ちを思いやることはできても。※
(※これもなくしたら私は相当お気楽で空気を読まない人間になるでしょう)
悲しくない。
それは自然な「反応」ですから、それを「強制して悲しもう」というのも、
その感情を作ろうとするのも変です。
これは今に始まったことではなくて、
スピリチュアリティーにフォーカスを定める人生になってから、
とっくに起こっていたことなのです。
私が今、胸を痛めたり悲しく思ったりする理由は、
人々の心が沈んでしまうこと、
人々が大切にしていたものを失ったと感じたり、ショックを受けたり、
物理的にも精神的にも、大変な思いをすることに対してです。
でも、それは「人間目線の私」にチューニングしたときはそうですが、
「私」としてただ自然であれば、それとはまた別の感覚で生きています。
そこにあるものを言葉にすると「静寂」や「平静」に近いです。
ただ…こんなことを単に前面に出して生きていると、
私は一見、人でなしのようになってしまいます。
これまでたくさん、たくさん、人並みに色々なことを感じてきて、
感情を持ってきて、ぜんぶ味わってきて、
それでも、こういう感受性になった今があるんだよ、
…ということがわかってもらえなければね。
「こんなときに、なんで平気なの?」
「なんとも思わないの?人の心がないの?」
もし、そのままの私でいたら、そんな風に思われるんだろうなと、
恐れていたのでした。
空気を読んで「合わせる力」は、決して、悪いものだとは言いません。
対人関係をスムーズにする潤滑油、余計なトラブルを避ける便利なもの、
になることも多いから。私もたくさんそれを活用してきました。
ただ、私の率直な感想としては、もはや自分でしらじらしいのです。┐( ̄ヘ ̄)┌
自身の本当に感じていることを知ってしまっている「私」からすると。
そんなわけで、私も個人的に、今回大きな課題に直面したというわけです。
その昔、当たり前にしていたようには「人に共感しない」自分を、
それが今の自分なのだとそのまま認めるのはいいが、
どうやって「社会」の中で出していくか…。出していいのか…?
その点は、私にも恐れがバリバリあったということです。
はからずも、今回の出来事がそれを浮き彫りにしてくれました。
そんな私にも響いた、この度のメッセージだったのです。
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