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BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

恩恵という視点から見ると…

今回のテーマは、「恩恵という視点から見ると…」

近頃、私自身にあった気づきを交えながらお話しします。


 


実は、過去記事を読んでくださった方はきっと目にされたことがあるでしょう、

「歯の出来事」関連の記事を、その役割を終えたと感じて削除しました。


記事は2年ほど前から書き始めたもので、

該当する出来事自体※は、さらに何年も前に起きたことでしたが…

(※一番の直接的原因は、一般歯科での何気ない詰め物治療の折に、

許可なく、複数の天然歯をいっぺんに削られてしまい、

調整という名目で噛み合わせが狂ってしまった出来事。)

以来、ときどき、歯科治療関連で新しく経験したことや思うことについて、

記事にしてきました。


まず、それにまつわる今回の気づきからお話ししたいと思います。



様々な経緯で、ここのところの私は、

見える景色が変わるような体験をしています。sky*


そういった中で、私が過去に経験し、ある意味では現在進行形だった、

歯科治療トラブルがきっかけとなって起きた不調や回復への試行錯誤の思いが、

ようやく自分の中で「消化」されるのを感じました。



これまでの記事ではそのトピックと絡めて歯科医療や医療そのもの、

治療における自らのあり方や意識内の気づき等を綴ってきましたが、


現在の私の視点からは、それらもやはり物事の「いち側面」にすぎず、

「外装」のようなものだったのだと感じています。



もっと内側を見ていくと、その根本には、

出来事を「間違ったもの、不幸なもの、災難」と受け止めている、

非難する(accusing)エネルギーが自分にあったと思うのです。


平たく言うと、「被害者のエネルギー」ですね。

その見方から、本当の意味では抜け出せていなかった。



人生には色々な出来事がありますから、

ときにはそんな気持ちになるのも仕方のないことですが、

長きにわたってその見方と、それに属する思いに執着して持続させると、

当人の健康や人生を害してしまいます。


とはいえ、ただ無理矢理納得しようとすることも、

「回復への道」を自ら邪魔してしまうようなものなので、

記事を書きながらの一通りのプロセスもまた、必要だったのでしょう。



そのエネルギーを放ち続ける限り、結局、手段や方法を変えても、

また似たような出来事を引き起こし、根本解決にはつながらない。


同じ色眼鏡をかけたままで世の中を見ているようなもので、

自分の中の「つらい見方、シビアな見方」を再現してしまう。


ある人や対象(思想や方法、教義、団体、ポリシーなどを含む)を糾弾して

それで気が済むように思えても、本当は、

元の「しこり」は自分自身の中にあって、声を上げているのです。



そういったことに「頭では」気づいていても、

これまでの私は、このトピックに関しては、

心からそれを受け入れたいとは思えませんでした。


ところが、今回、自然に、

まるで色々なしこりがすぅっと溶けていくように、

パズルのピースが次々とはまるように、


すべてバランスがとれている


ということに気がついたのです。



それは、起きた出来事を自らの意志の力でポジティブに解釈せよ!

というポジティブ論ではありません。


ものの見方がぐるりと360度広がったような感じで、回転して、

自然と別の立場、別の景色から物事を眺めることができた
のです。


そしてわかったことは、もとより自分の持っている観念、

それに基づく現実の解釈しか、人間にはできないのだ
ということでした。


出来事とは、本人にとってはそのようにしか経験できないものなのです。

それぞれが、それぞれの観念に基づいて「何が起きたか」を解釈しています。



だからこそ、自分の現実は、自分で変えることができます。

あなたの現実は、あなたが変えることができます。




「苦しいな」と感じる現実があるのなら、

それを変えられるのは、周りではないのです。

その力を持つのは「出来事を引き起こしたように見える他者」でもありません。


周囲の人が、癒しのきっかけや力になってくれることはよく起こりますが、

それすらも、自分の中の意識変化が「先に」あって起こることです。

治療についてもそうです。



まず、自分の観念を、絶対のものではなく「保留」としなければなりません。


「絶対にこうだったんだ!」

「こういうことが起きている!」

「あの人は・対象は、私にこんなことをしたんだ!」

と、信じている自分のものの見方を認めることはいいけれども、

「それが真実である」と断定するのをやめるのです。


本当に起きていることと、あなたが思っていることとは、

違うから、ギャップがあるから、「苦しい」のです。

それが真実を見逃しているときの「サイン」です。



それがどうしても自分にとっては事実に見えていても、

「起きていることの自分なりの解釈だ」ということをまず認める
のです。



先に書いたように、私はこれを無理矢理に行うことはおすすめしません。

やはり時期がこなければ、そんな見方はできないものだと思うからです。


あなたの内から湧いてくる感情や思いの「叫び」をブロックするよりは、

それを感じることを自分にゆるすことが先決です。

むしろ、その必要があって(それらの感情や思いを知るために)

外の物事は起きているのですから。


やがて、自ら感じることのできるそういった感覚を手がかりに、

自分の持っている観念におのずと導かれ、気づくことができるでしょう。



ただ、経験をしてみて私に言えるのは、

ひとつひとつの出来事にまつわる自分の思いを認めるのはいいけれど、

それを他者に起因するものとして非難し続けることは、

自分を苦しめるし、望む結果は遠ざける
、ということなのです。


そしてまた、そんな状態にあるとき、

その出来事に関わった(糾弾の対象となっている)他者の真意や、

ありのままの姿や、起きている出来事の本質的な「恩恵」の部分には、

決して気づくことができなくなってしまう
ということなのです。


いえ、自分の奥底では気づいていても、意識的に遮断してしまうのです。

すると…


どんな人にとっても

他者は自分自身の一部であるので

そうしている自分が苦しみます。



逆に、それをやめたときに気づくことができるのは…


恩恵という視点から見てみると、

人生のすべては、恩恵につながらざるをえない。


ということです。


こんなことは、机上の空論や理屈としてとなら、私もお伝えしたくありません。


でも、自然とそう感じられるだけの確かな背景が、私たちの中にはある。

ひとりひとりの中に、それだけの力がある。


あることについて、「今」は恩恵などとは感じられないあなたがいても、

あなた自身のひとつひとつの感情、思い、湧いてくるもの、願い、

それぞれ受けとめていけば、いつかは内にあるものがほどけ、展開し、

異なる視野が広がる
ということです。


それは他者ではなくて、自分自身の中で行われるのです。



そこで見える景色は、

ずっとあなたの中にあったけれど、

時期が来るまで封印していたもの。


十分経験をしてから、やっと、握りしめていた手をゆるめて開けるもの。

もういいよ、たくさんだ、と納得して力を抜けるもの。



そのとき問題は問題でなくなり、

恨むべき人や糾弾すべき事柄はなくなり、

あなたが本当に望んでいたことにまつわる「恩恵」だけが残るのです。星



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