今回タイトルのテーマに入る前に、9月の講座日程のお知らせです。
9月30日(土)14時から16時
(講座終了後、自由参加の懇親会があります)
講座の内容等、詳しくは後日、ご案内の記事を掲載します。
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それでは、「頼りになる道~未知~」のお話です。
私たちが起きて、目を覚まして、人間体験をしている間、「確かなもの」は目に見えるもの、触れるもの、あるいはすでに知っている物事の仕組みや知識や常識のように、自分の親しんでいるあれこれが該当するように思えます。
人生というこの夢においては、私たちにはそれらが「頼りになるもの」に思えるのです。
たとえば、定められた契約のもとで働いたら、お金をもらえる。
お金は、現金でもらうことも、口座等に振り込むという約束に従った形でもらうこともあるが、それらは「使う」ことができて、色々な物やサービス等を購入することができる。
そのような「ルール」は、私たちにとって「何をいまさら」というくらい、確かなものに思えます。それを基盤に、基本的にはいちいち疑ったりはせずに、生活しています。
植物の種をまき、適切な手入れをし、無事に育てば、その実りを収穫できることとか。
食物として私たちが選んでいるものを、体に摂取して、その栄養を吸収して、排泄するとか。
そういうことは「とても現実的」に思えるわけです(笑)
でも、それら「既知」の当たり前のことも、別な「現実」のルールのもとでは、この地球での面白い仕組みです。ご当地あるある。中でも限定版の、この時代あるある、もありますね。
こんな会話を想像してみます。
地球経験者A,Bと地球未経験者C,Dの会話。
C「地球経験した?」
A「経験したー!食物っていう特定の種類のものを毎日摂取して、エネルギーにしてた。」
C「まじ?何それ?それがエネルギーってどういうこと!?(驚き)」
B「地球、なつかしー。俺がいた時代はさ、あのリアリティの中にいるとさ、お金ってもんが欠かせなかったなぁ。」
D「オカネ?何それ?欠かせないってどういう意味?」
B「基本的には、交換をスムーズにするための道具みたいなもんだよ。
それ自体は物質なんだけど……でも、概念に価値があるっていうか。約束事っていうか。そこに色々な意味付けをしたり、価値のすり替えが起こっていくっていうか……。ほとんどのものに値段というのをつけてだな、その通りのお金と交換して得るルールだったから、生きることにそれがけっこう絡んできてよ。お金をどれだけ入手するかとか、所持しているかとかを自分のパワーと同一視していく参加者もいたりしてさ。ま、色々複雑なんだよ。こうして説明しても、実際に参加してみないとあのエキサイティングな感覚はわかんないと思うけどね。」
D「何それ、全然わかんないな。オカネがそんなにインパクトあったんだ?」
B「俺が参加していた頃は、それがないと生きていけない、っていう感覚だったなぁ」
D「ええー。ないと生きていけないってどういうこと?ちょっと想像つかなすぎるから、その世界体験してみたいかも。」
ははは……
一方で、私たちには「見えないもの」や「概念的に理解できないもの」は未知の領域で、不確かに感じられます。
スピリチュアルとか……見えないエネルギーとか……夢の世界とか……想像とか……そんなふわふわしたものにはまってるなんて、ほどほどにしなさいよ。
それらのトピックを非現実的と見なし、「現実を生きなさいね」みたいに思う「ものの見方」は、そう珍しくはないでしょう。
それでも、それらがたとえば「芸術」という形で表現されて、公開されたり共有されたり職業になったりしようものなら、「現実的」と見なされるのかもしれませんね。
さぁ、これらの「現実的」の物差しを、ときには壊しましょう。
それらはどれも、私たちのルールの中で引いた境界に従っているだけです。
そのことを自覚する必要があります。
別のリアリティでは、別のルールが。
ここでの常識は、あちらでの未知に。
それどころか、私たちの「当たり前」と思っている生活、歩んでいる人生、大半が「自分には何のことやらわかっていません」。
たとえば、夢。
あなたは眠っている間に夢を見ます。それを記憶していることも、していないこともありますし、あなたが覚えている部分は起きた後の自分の観念を通した「自分の解釈」です。
その真の姿までもは、わかりません。
私たちは基本、毎日眠るので、私たちの信じている「現実の時間」に換算して考えても、人生の中の何分の1かは「眠った後の世界での活動」に費やされています。
ところが、私たちは、夢を理解していません。
そこで何が起きているのか、自分は何をしているのか……すべて説明することなど、できないのです。
あなたの中に確かに存在している「未知」の領域。
それは、見ないふりをしているだけで、このように身近にたくさんあります。
気をつけてみると、ほとんどのことがわからないのです。
わからないのに、回ってる。
どうにかなってる。機能している。
とても確かに「ある」ように思える、あなたの体だってそうではありませんか。
一体、自分の体の何もかもを本当に「理解」している人など、いますか?
海の中のこと、地の中のこと、空気のこと、上空のこと、ほとんどわからない。
私たちは多くの「わからない」に囲まれて、それでもわずかな「知っている」ことが確かであるような気持ちで、暮らしている。
だからこそ、思い出してほしいのです。
あなたの「頼りにできる」のは、既知ですか、未知ですか?
あなたという存在は、「今の自分」の視点から見ると、多くの「未知」に支えられているのです。それは明白です。
それなのに、「既知」が安心だとなぜか思える、この逆転現象に気づいてください。
あなたの頼りにできるのは、既知ですか、未知ですか?
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私は先日、夢の中で、あるバルコニーの戸口から、向かいの建物を見ていました。
それはかなり大きな、学校に似た建物で、廃墟でした。
ああ、向かいはこんなに古い廃墟だったんだな……と思ってまじまじと見ていました。
その建物の高い階の外側の壁に、白い、生成りの色の大きな布がかけてあり、それがある形に見えて、私は「ん?」と思い、じーっと見ていました。
でも、よく見るとそれはただの穴の開いたぼろ布で、その形のように見えているだけなのだ、と納得しました。
自分のいる建物の方もそれなりに古く、バルコニーの壁はひび割れて、表面が模様になってめくれていました。戸口の敷居も、そうでした。
バルコニーの左側の角の手すりを見ると、不思議な形をした石の太いパーツが巻き付いていました。こちら(起きている間の現実)では見たことのない、説明のし難い様子です。
こういったすべてを、本当に手に取るようにはっきり、じっくり眺めていました。
それはもう、詳しく絵に描けるほどに。
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そこにいたことも、その光景も、夢の中の私にはなじみのある「知っていること、ごく自然なこと」の延長で、言葉にできない概念を持っていたのですが、それを「起きてからの私」には説明することができません。こちらの現実でそれらの景色を体験したこともありません。
そのときに見たほかの夢も同様です。
この現実と寸分違わず「リアル」で、あそこにいた私はあそこにいた私で存在しているのに、この夢の意味も、それが何なのかも、こちらに目覚めた私は言葉にできないのです。
内側に残る感覚を、ここでは説明するすべを持たないのです。
こんな体験を日々繰り返していると、この現実でいかに「確か」に見えるものも、「未知」の土台を持っていることをおのずと悟ります。
体験している“この現実”が唯一のものでないという証は、あなたの中にあるのです。
未知も既知も、確かさも不確かさも、相対的な表現ですが……
私たちは土台にある「未知で、既知」に、もっと心を開いていいのです。
それが自分の中にあることを忘れてはならないし、それは恐れの対象ではなく、あなた自身の頼りになる、確かな道。「非現実」ではありません。
そして、何かを非現実と考えるときには、自分の「現実の定義」を確認するチャンスですよ。
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