BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

興味のあるものに興味があり、興味のないものに興味がない

少し久しぶりの更新ですが、お元気でしたでしょうか。

私は休業中、飛行機に乗って遠方へ国内旅行に出ていました。
旅のきっかけとなったメインの目的は、今年に入ってから転勤になり引越していた友達を訪ねることで、途中から家族と合流し、別の場所も訪れる……という旅程でした。

全て私にとっては初めて訪れる場所で、細かい計画を立てなかったことが幸いし、思いがけず面白い出来事もありましたので、気が向いたときにそれも別の記事で書けたらと思います。

今回のお話、「興味のあるものに興味があり、興味のないものに興味がない」は、私が近年、日常で強く感じていること、そして旅を通してもやはり実感したことです。

とにかく色々なものに興味を示し、自分の好みを探す時期もある

これから書くことには個人差があるので、当てはまらない人もいると思いますが、一般化してお話しします。

私たちひとりひとりには生まれながらの個性があって、その傾向というのは内に含んでいる種のようなもの、それがどんなものなのか本人がはっきり自覚していなくても、生きながら自然と萌芽して、育っていきます。

ある人が強く関心を向ける事柄が、ある人には全く興味の対象とならない。
そんなことはよくありますよね。

けれども、青年期から成人してしばらくの若年期には、一般的に、まだ「自分が定まらない」時期と言えるでしょう。

一通り色々なものに興味を示して、「これが自分かな?それとも、あれかな?」と、手探りで探すような時期があるのです。

食べ物にたとえると、まるで沢山のものを「味見」して、何が自分の舌に合うのか、自分の体に適しているか……吟味しているかのようです。

その結果、一度味わっても合わないものは吐き出し、「これが私だ!」とカチリとはまったものに関しては滋養として取り込んで、自分という個性を確立し、深みを増していくのです。

今の社会システムでは、早い時期に自分の進路をはっきりさせるよう促す傾向があります。
たとえば、高校や大学などを決めるときにすでに、「将来の職業」へ向けて、関心を定めなければならないことがありますね。
でも、誰もがその決められた時期までに自分のやりたいことがはっきりしているわけでもないでしょう。ひとりひとりのペースがありますから。
人によっては、どこかに入ってから、何かを経験してから、「違った!」とわかることもあるかもしれません。

それらも「あなた自身を知る機会」のひとつにすぎません。
周りのペースに影響されたり、「一度決めたら変えられない」と思い込むのはやめましょう。

また、人生の早い時期に「自分の好み、個性を確立せねば!」と焦る必要はないのです。
あなたはまだ、色々なものを味見しながら、この地球における自分の好みを発見するプロセスにいるのかもしれないのですから。

若年期を例に出しましたが、人によっては人生の他の時期……仕事を変えたり、辞めたり、それまで従事していた物事(たとえば子育てや家族のお世話などの都合)がひと段落したときに改めて、このプロセスを再び迎えることもあり得ます。

人生の中で何度、自分の望みや個性を見つめ直す時期があってもおかしくありません。
そんなときには、一時的に、それまであった自分のカラーや関心事、好みなどが消えるような感じがするかもしれませんが、この話を思い出して、どうぞくつろいで色々なものを味わってくださいね。

自分独自の個性を素直に生きると…… 

さて、そんな時期も過ぎ、あなたが自分の個性を素直に受け入れると、あなたは必ず、自分と他者との「違い」にも気づくようになります。

ネットで評判の「おすすめ」を見ても、あなたはちっとも心が動かないかもしれません。
友達が、何かを「よかったよ!」と言っても、あなたにはどこがよいのかわからないかもしれません。
あなたにとって「充実して、とても幸せ」なひとときも、他者からは何が面白いのか理解されないかもしれません。

そのような違いが生まれることは、自然なのです。

それ自体には何も問題がないのですが、ここでもし、あなたが「他者のように感じなければならない」と、自分に強いたらどうでしょうか。
あるいは、「こう生きるべき、こう考えるべき」マニュアルのようなものを、自分の内側に取り込んでいたら、どうなるでしょうか。

そう、葛藤や苦しみが生じてしまいます。
素の自分に逆らい、それを別の方向へ向けようとする力を作ってしまうからです。

私たちが「集合的な観念」に同調すると、こういったことはよく起こります。

たとえば私は今回旅行をしましたが、もうずいぶん前から、旅のガイドブックや誰かのおすすめする過ごし方、モデルプランのほとんどが、自分には合わないことを実感しています。
ですから、それらは情報として存在はしても、実質、何も参考にはならないとわかるのです。

また、「旅先なのだからこうした方が……」等の考えも、単に自分を縛るものにすぎず、決して自分自身が楽しむこととは関係ないのだということもわかりました。

内からやってくる思いに素直に応えることで、そのときそのときを楽しむことができます。
「こうあるべき」ということをちらっとでも考えたら、純粋な楽しみは失われます。

興味のあるものに興味があり、興味のないものに興味がないと受け入れる

普通なんてない

日常生活の中で、合うもの・合わないもの、興味が引かれるもの・引かれないものをただ受け入れていくと、自分という個性が浮き彫りになります。

たとえそれが「これが普通だよ」と言われる姿と異なっていても(本当は「普通」なんていう基準は思い込みで、存在していないのですが)、受け入れるようになるのです。
ほかでもない、それが自分なのですから。

素の自分を無視して、あえて別の自分になろうとすることがなければ、あなたのエネルギーに葛藤は起きません。
エネルギーはスムーズに流れます。自己内での対立や、滞り、しこりをわざわざ作らずに済みます。

もちろん、あなた自身がこれまで信じて習慣にしてきたけれど、今となっては噛み合わなくなっていることなど「旧観念」が消えるときに、エネルギー的な「摩擦」を経験することはあるでしょう。それは状況や出来事として、現実にも反映されます。

具体例として、今回の旅で認識が深まったことを挙げます。

食への観念が減ると、食事は社交の場であると認識する

私は、ずいぶん前から「食事」の集合的な観念からかなり離れて行っていることを感じています。自分の体の声を聴いていると、どうしてもそうなるのです。

1日に何回、何時に食べるという食物の摂り方をもうずっと前からやめているので、たとえば旅行時に、一緒にいる仲間との兼ね合いや場所移動などの都合で、「体は欲しがっていないのに食べる」ということを積み重ねていくと、体の調子がつらくなっていきます。
とはいえ、これは自分次第でもっと工夫の余地があったので、以後の課題です。

旅の食で言うと「ご当地グルメ」のようなものも、かつては楽しみにしていたかもしれないのですが、今となっては「興味がないものには興味が生まれない」状態で、ほとんど関心が湧きません。
そもそも日常から、「自分の体に合うものを選ぶ」という意味では、食についての姿勢は一貫しているものの、「食にかける特別な情熱、エネルギー」はとうになくなっているのです。

ですから、他者の基準で存在している「健康食」に興味もなければ「美食」にも興味がなく、今は治療のために歯科矯正をしているという都合もあって、食は相当に負担というか物理的にも煩わしいため、「体を維持するには必要」というほぼ義務的な気持ちがあります。

その上、基本的に「和食」の中に、体質的に不得手なものが多いので、特に国内では、旅先の名物を食べないともったいない……という考えを持つと、私には負担になります。
それを自覚はしていたのですが、やはり現地の名物を!と薦められると、その中から選ばないと一緒にいる人たちに申し訳ないなぁと思ってしまう自分がいました。
歯の都合で噛めないものも多く、そのことですでに範囲を狭めているのに、さらに条件を絞るのは悪いなぁ、といった肩身の狭い思いがあったのです。

ただ、そのように食への関心が薄れている私の観点から見ると、人間の「食にかけるエネルギーや興味」は相当なものだなぁと改めて、再認識してしまうのでした。(自分もかつてはそうであったのですけれども。)

精神世界・スピリチュアル分野に関心がある方は、食物を摂らずに生きる不食というあり方を知っていると思いますが、私はそれに憧れたり、そうなりたいと思ったことは一度もありません。
それにも関わらず、自分が自然に向かっている方向性としてはそちら「寄り」なんだろうなぁと感じています。
つまり、「食の質を良くしよう!」などのムーヴメントより、「食事自体、そんなに要らないのではないか」という感覚になりつつあるのです。

今でもお腹がすけば食べるし、食べ物をおいしいと思うこともあるし、そのときの調子によってはたくさん食べることもありますが、全般として、おおまかに見ると「自然と不食の流れに向かっているのではないか」と認識してしまうということです。

そのような感覚で生きていると、自分ひとりで適当に食べるときは別として、
「食事」とは、ずばりソーシャル、「社交」のためにあるのだと実感します。

集合的な「食事の観念」から外れるときに起きること 

集合的な「食事の観念」から外れると、あなた自身が自分のそのあり方を完全に受け入れていない限り、社会参加が難しくなるような側面が目につくかもしれません。

私は、人がものを食べたり、飲んだりしているときのエネルギー、くつろいだり、楽しんだり、何かがほぐれている感じ、それを楽しむことは好きです。
ですから、今は「その場に参加しつつ、自分のままであること」を心に留めています。

また、私の場合は食について自分に近い感覚を共有している友人も数人いるので、その人たちと一緒にお茶や食事をするときは、お互いに自身のコンディションによって適当に選ぶことを理解し合っており、さらに気楽です。

でも、多くの人にとっては、「食の観念」を変えるとき、家族や友人、周囲の様々な人々との社交に影響が出ること、それがハードルになるのではと考えました。
「食事」ほど、日常的でありながらその人の信じている観念がはっきりと出るものもないと、つくづく思うからです。それぞれが色々なルールや、信じていることを持っていますよね。

そして、食の摂取は生命に関わることだからでしょうか、人によっては、他者の食べる物まで心配したり口出ししたりする人もいますしね。
そういったとき、相手に反論したり、説得し返すなどの「エネルギー的な争い」を起こさずにあなた自身でいられるかどうかは、最初はちょっとしたレッスンになるかもしれません。
ここでも、ひとりひとりの個性は違うということを理解することで、それぞれが自由になれると思います。

買い物にも興味がない、私の関心。

そしてまた、旅行で私が実感したのは「買い物」への興味のなさです。
たまたまどこかで行き合った物を気に入って買うというのはいいのですが、買い物そのものを目的にしようとしても基本的に「欲しいものがない」私には、買い物する場や施設には本当に興味がないのだと痛感しました。
どんなに人気があっても、自分が興味のない場所は、実際に出かけて目の前で見てもやっぱり興味は湧かないものだなと(笑)

「食」も「買い物」も興味がない自分には、旅で何が適しているかというと、特に挙げるなら自然を眺めることなのですが、これは人から見ると「何もしてない」ような時間が、たっぷり必要なのです。
何かの「アクティビティーとして自然の中で遊ぶ」ということじゃなく、興味を持ったり気に入ったりした場所に「ただいる」みたいな過ごし方が、私には楽しい時間なのですね。
特別な場所への観光も、興味が向かなければ、なしでいい。

それで、「旅」する意味があるの?と問われれば、誰かと一緒の旅なら、旅をしながらの交流そのものに価値を見出します。
一緒に過ごした時間自体に意味があり、思い出なんですね。

物理的な移動への思い入れが減る

あなたのいる場所は、あなたの意識の延長

先述のように、一緒にいた人たちとの時間が過ごせたことはよかったですし、旅したからこそ味わえた楽しさは確実に色々とあったものの、家に戻ってきたときに私が感じたことはまさに「It's good to be home !」(家に帰ってくるのはいいね!)でした。

帰ってきたときのこの反応は、行った旅先によっても変わるかと思います。
旅行先があなたの感性にあまりに素晴らしく合っていたら、帰ってきたときには素敵な夢から現実に戻ってきたようで、がっかりするかもしれませんし。

私の場合は今回は、戻ってきて「やっぱりこの土地は私に合っているんだなぁ」というほっとした思いが湧いてきました。

一度引越しは挟んだものの、けっこう長く今のエリアに住んでいるので、そろそろ日常の中では飽きていたというか、新たに「良さ」を感じるようなことはなかったんですね。
ところが、まとまった日数離れてみると、ここが自分に合っていることを改めて感じることができた、という具合でした。
今のところは適度にマッチしていて、「水が合う」という表現がぴったりです。

あなたの住んでいる場所、活動している場所も、「自分の現実は自分が創造している」ということを思い出せば「あなた自身の意識の延長」です。

言い換えると、あなたの醸し出すエネルギー、心の関心、観念等が、何らかの形でそこと噛み合っているからその場所にいるということなのです。

その場所が合わなくなったとき、あなたにはわかります。
あなたの意識の放つ波長が変わると、新しいヴァイブレーションで生きるのに適した場所へと移りたくなる可能性も高いでしょう。

世界はすべて内にある

かつての私は旅が好きな方で、プライベートのみならず、海外出張やそれに伴う物理的な移動も苦にならなかったのですが、近年はそれも変化して、長距離移動に費やすエネルギーにものすごく疑問を覚えるようになりました(笑)
苦手になったというか、それにワクワクしなくなったということは言えます。

すでに「A地点からB地点まで、外の世界を移動している」という観念は消えてしまい、「自分の意識内のフォーカスを点Aから点Bに変える(意識の投射する内容が変わる)」という感覚なので、どうして物理的に乗り物等に乗って長時間じっとしていなければならないのか、とても効率が悪いというか、それが必要な「ふり」をしているようで、腑に落ちない思いが強まってしまうのです(笑)

これは理屈じゃなく本当にただそう感じるので、昔よりも長距離移動に納得する感覚が失せ、同時に忍耐もなくなってしまいました(笑)

こうなると、以前より「旅行欲」もなくなるのです。

振り返ると、2014年の時点でも、こんな記事を書いていました。
「旅行欲が落ち着いている話」

beats-and-love.hatenablog.com

しかも、この記事でも最後に、宇宙人の話題を入れていますね!

宇宙船の移動の仕方や、地球上であってもテレポーテーションや体外離脱などの観点を持つと、「物理的な移動の幻想感」は強まってしまうと思います。

人間のリアリティーとしては適した経験なのでしょうが、だんだんそれも要らなくなっていくというか、他の方法でもいいのでは、と思い始めるのです。

これまでに旅の移動の情緒はたくさん味わったので、そろそろその手段でなくてもいいなぁ、と私は感じています。

あなたはどうですか?
何が楽しくて、何にはもう関心がありませんか?

「興味のあるものに興味があり、興味のないものに興味がない」

ひとりひとりの興味の違いは、あなたの個性がつくる、あなたの現実のユニークさを生み出します。
その価値を、まずはあなた自身が認めてくださいね!


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