BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

その「型」は必要かい?既成の概念から自由になろう

美しい空の日が続いています。
写真は先週のものですが……

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紅葉の季節は、木々のそばを通るたび、葉の絶妙な色合いに目を奪われてしまいます。
イチョウは緑色と黄色のグラデーションが美しいですね。

季節のトークと関連して、この間は、駅にほど近いにぎやかな街路を歩いていたら、なんと、人通りを縫って、ネズミが路上をかけてきました。
ネズミを見かけるときいつもそうなように、道を横切ったらすばやく側溝か何かに入って行くんだろうな……と思って見ていたら、街路のはじっこで、止まった!

そしてそこで、かわいい仕草で顔を洗い始めたんです。

ヘーゼルナッツ色の毛がつやつやしてきれいな、黒い目がつぶらでかわいいネズミさん。思わず立ち止まって見とれてしまいました。大きさは、シマリスより大きく、エゾリスより小さいくらい(リス好きにしかピンとこない基準か!? 笑)。

地下鉄や道路上で見かけるネズミたちは、ほとんどの場合、毛が濡れて黒っぽくなっていたりするのに、こんなに乾いたきれいな毛のネズミを見るのは珍しいなと思いました。

私は子どもの頃にシマリスを飼っていたのですが、ネズミさんの顔を洗う仕草も共通で、その様子はかわいくてたまらない。距離を保ってじっと見守っていると、私のほかにも数人の方が同じように興味を持ってネズミを見ていました。

顔を洗い終わると、ネズミさんはさっと歩道の敷石のかげ(排水の溝等ではなく、物陰で細い隙間になっているところ)に入って見えなくなってしまいました。

☆追記……記事を書いた後に調べてみたら、ノネズミの可能性もありそう。駅に近い歩道とはいえ、この地域ならいてもおかしくないのかも。大きさ的にどうかはわかりませんが、外見的にはノネズミの方が近かったと思います。

さて、日常の話題はこのくらいにして。
今回は「その型は必要かい?既成の概念から自由になろう」がテーマです。

型やシステムは人が作ったもの。それらに逆に囚われてはいないだろうか

最近自分の中で、ひょんなことから見つめ直していたことがありました。
それは、どれだけ「他者の観念に合わせようとしてしまっているか」ということです。

もうかなりそういうことは少なくなったと感じていたものの、やはり、親しい人や尊敬する人たちの影響は自覚の薄いまま取り入れていることがある、とわかりました。
とはいえ、それらは結局「自分の本意ではない」ので、あるとき、「なんか違うな」と気づくわけです。

私自身がスピリチュアリティーに照準を合わせるとき、絶対に必要だと感じているのは「型を採用しない」ということです。

つまり、諸々のシステムや型といった道具…… 古から伝わる歴史ある概念も含めて、それらは「従」として使う分には利用価値があるかもしれないが、「主」ではないということを昔から確信しています。

その確信は生まれながらのもので、こうしたスピリチュアル分野の仕事に携わるずっと以前から、いわゆる星座や血液型、姓名で人を分類するなどの「型」には違和感を抱き続け、興味を持ったり共感したりしたことは一度もありませんでした。

エンターテインメントとして話題にするにはかまいませんが、本気でそれを信じるのは私には「ありえない」ことだったのです。

ここで、説明のためにたとえを挙げましょう。

「あの人は日本出身だから、お米が好きだと思う」と誰かのことを言ったとき、その発言をした人は「日本人はお米が好きである」という前提を採用しています。
実際には、日本人でもお米が好きではない人もいますが、「大多数はそうであろう」という型に基づいて考えているのです。

こうした前提を私たちはたくさん持っています。「観念」とも呼びますね。
前提は、ただの前提であって、事実とイコールではありません。

それと同じように、あらゆる「型」は「事実ではない」と知っておく必要があります。
何かのきっかけで、そのように「信じられるようになった」けれど、それは「型」なのです。

血液型△型の人はこんな性格だよ……
××座の人ってこういう特徴があるから…
数秘術で□の人は、○○だからね……

それらは、信じる人にとっては根拠ある内容なのでしょうが、万物に通用する真実ではないのです。
自覚してください、あなたは「型より前に存在する者」です。

型や概念といった「道具」は、利用価値があると感じる人が利用するのは良いにしても、本人と道具との「主従」の順番を間違えると、あたかも「先に型が存在していて、対象をその型にはめて見る」ということになり、「道具に従う人」が生まれてしまいます。

それは「道具を使うのではなく、道具に囚われてしまう」状態を生み出します。
いつの間にか道具に依存していて、「道具なしで見ることができなくなる」からです。

その枠組みを作っている者に気づこう 

私の場合、そのように自分自身は型への興味がないにも関わらず、精神世界・スピリチュアル分野に関わってからは、色々な型の概念を採用している人たちとかつてより多く知り合うことになりました。

これは私にとっては少しファニーな感じもしたものです。型をなくしていくはずのスピリチュアリティーの活動で、型が多く存在しているとは。
もちろん道具としての一時的な価値を認めることはOKなのです。先述のように、本人がそれをわきまえて使っているならば。

ただ、私自身のスピリチュアリティーのあり方からすると、
「相手の好きなもの、興味のある物事を知る」という意味で他者の採用している型の概念に耳を傾けることはあっても、私自身が特定の型に共感するということはやはり、ないです。
私がそれらに興味を持つとしたら、相手(その人そのもの)への関心からであって、私の採用したい内容だからという理由ではないのでした。

私が面白いなと思うのは、「どうしてこの人は、その特定の型に信頼を置くのだろう」という各人の個性や心の構造です。

なぜ、それを信じるようになったのか。どんなニーズで。
また、その人自身のエネルギーの中に、たとえばカバラの概念を取り入れる文化のエネルギーがあったり、占星術を学術として用いていた別の人生の経験が色濃かったり、といった具合に霊的な表現の色模様を垣間見ることもあります。

そうした「人々のエネルギーのカラフルさ」を知ることは純粋に楽しいものの、ときに私自身までもが、自分の共感していない概念をわざわざ検討してしまうこともあったのでした。
しかし、それは先述のように「自分自身の内から湧く概念ではない」ので、あるときハタと、「なぜ、その型に私まで合わせて考えているんだろうか」と、元の自己に戻るわけです。

自覚的になって自身の「ゼロ」に戻ってみると、「どんな枠組みを採用したいかは自分が決めている」ということはもちろん、ふと先月取り組んでいた古代文明の情報など※も思い出し、「どこから生み出されたにせよ、誰かがその枠組みを創ったのだ」ということも思いました。(※シュメールの文明など。暦や天文学占星術の起源があるとも言われる。)

「私」とは、枠組みを「生み出した側」であり、枠組みに収まるものではありません。
それらの枠組みを創り出したとき、何かに役立たせるための利便性はあったに違いありませんが、あらゆる枠組みは「すでにあるものを解釈する方法の一端」にすぎず、限界があります。

型によって人生や相性を「決めたい」ですか?

表現の一環として、特定の道具を用いる人もいる

まずお断りしておくと、中には、既成の型を道具として用いながら、相手そのものと向き合うことができる人もいます。
それはちょうど私たちが「言葉」を使って、言葉以前に湧いているものを表現するようなもので、そういう人は表現方法としてある型を利用しながら、エネルギー的には直に相手と向き合っているのです。そのとき型や道具は、いわばスイッチや補助の役割をしています。

たとえば、手相を読むという「型」を使って、途中から自然とチャネリングのような意識状態になり、エネルギー的なリーディングを行っている人を見たことがあります。
そういう場合、その人の得意分野(扉の役割を果たす)が手相であるけれども、実はその人はその型を超えたところから相手に関わり、何事かを表現しているのです。

そのように「道具を道具として、主従関係を間違えずに」活用できる人もいるので、「色々な型の価値自体を否定するわけではない」ということはお伝えしておいた上で、すべてにおいて最終的に「物事をどう見ることにするか決める」のはあなた自身であるというお話です。

型にはめて思い込みをすると、相手が見えない

あなたの人生であるとか、誰か人との相性であるとかを、既成の型に沿って思い込んだまま「その通りだと決める」のは得策ではありません。

色々な型が外の世界にはあり、様々な判定がもらえるでしょうが、あなたがそれを受け入れるかどうか、採用するかどうかは自分で決めています。
あなた自身が同調し、取り込むことを許可するまで、外にあるものは無力、無害なのです。
「自分が気にすると決めたこと」は自分に響きます。

過去に私自身が体験したエピソードを挙げると、かつておつきあいした人たちの中には複数人、星座や血液型に強いこだわりがある人がいました。いずれも後から判明したのですが。
私自身はそれらを信じていないので、本当にそれを重視する人もいるんだ、ということが印象に残りました。

とても昔のことですが、つきあい始めて間もなく「僕は○○座の人と相性がいいって言われていたから、君とはぴったりだ!運命の人だ」と言われ、心がざわ…ざわ…となったことがありました。どうしてそこに星座が関係あるんだろう!?と。
それが恋愛初期特有の、お互いの相性を肯定したいが故の浮いた言葉のひとつであれば、後で笑い話になるかもしれませんが、その人の場合は本気で星座の相性を信じていました。
結局その人とは、色々私には噛み合わないことが多く、短期のおつきあいで別れました。
そのときの感触として、始終「いや、それ私じゃないよ!?」と伝えたくなる「その人を通した私像(思い込みのイメージ)」で見られ続けていたということも印象に残っています。
多かれ少なかれそれは誰にでも起こることですが、このときは「彼が見ている夢」を、リアルな私が突き抜ける方法はない感じでした。

またあるときは、「自分は血液型×型とは相性が悪い!」と宣言している人もいました。
それで厄介だったのは、私が血液型を調べていなかったので、何かあると「×型なんじゃないか」と言われたことです、望ましくない意味で。
何型かわからない段階でこれでは、もしその×型の相手だったら一体!?という心境でした。
私からすると自分や人が何型であろうと関係ないのですが、こだわりのある人には、どこまで本気か程度の違いこそあれ、響くことなんでしょう。

私的な親交の場以外でも、この種の体験はありましたが(会社経営や仕事上でもこういうことを気にしている人は意外といますよね)、総合して感じたことは、「信じている人にはそれは意味があり、実際に拠り所にしているのだ」ということです。もちろんその観念の根っこは、本人がそうしたいと思わない限り引き抜けません。
本人の信じている内容は「魔法の言葉」で、「そう信じたら、そうなる」のです。

ある型を採用するとき、「あえてその色眼鏡をかけ、その見方を採用するのだ」という点を、自覚しておくことは大切です。

別な言い方をすると、あらゆる型は、「呪い」になり得るんです。

○○の型による、Aさんの分類は□□である。□□の人は、ああでこうで……と、何かで読んだとします。
もし、あなたがその型を採用すると、あなたは「その型を通して」Aさんを見始めます。
実はAさんには、そこに書かれていたのと正反対の個性や、全く違った面が多々あるのですが、あなたには「そうと信じた型通りに強調して見る」癖がついてしまうのです。
そして、「Aさんはやっぱり□□だからねー」と、納得します。

それがポジティブな作用の場合には、「相手をポジティブ像として見る夢の中」にいるような感じかもしれませんが、相手そのものを見ている状態とは言い難いですし、
ネガティブな作用の場合には、「□□の人ってやっぱりこの通りだ。苦手!」という思い込みを強化することになってしまいます。

このことはもちろん、自分自身の人生に対しても同様です。

さらに、いったん採用した型は、それを信じている者にとってはもはや「体験済みの事実」になってしまっていることが多いという点にも留意してください。
私たちは自分の信じた現実を体験するからです。

自身のスピリチュアリティーに沿うということは、そうした型を持っていることを認識して、「枠組みに当てはめて物事を見るという限定されたあり方」を、手放していくことです。
少なくとも、それは「一時的に自分が採用している幻想であり、別の観念の下では通用しないのだ」と自覚することが必須なのです。

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