BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

翻訳の不自由さと楽しさについて語ってみよう

今回は、「翻訳の不自由さと楽しさについて語ってみよう」というテーマでお送りします。

ときどき自分のブログで、元は英語の内容を、説明のために翻訳することがあります。
前々回も少し↓

beats-and-love.hatenablog.com

すると、元の言葉がたった数行でも、幾通りもの翻訳が浮かんで、ひとつの表現を採用した後にもしばらく吟味してしまうことがままあります。

英語の知識が足りなくて考え込むこともあれば、英語ではわかっているけれど、「日本語で」どう表現しようか?と考えることも。

もっとこの訳の方がいいかな?
こう言った方が、ぴったりかな?と…。
その前後や全体を何度も読み(聴き)直してみたり。

私はかつて翻訳の仕事をしていたことがあるのですが、主に精神世界・スピリチュアル分野の翻訳を引き受けていたので、かえってそういった迷いは少なくて済みました。(それでも、もちろん悩むことはありましたが。)

ある程度、専門知識が含まれるインストラクション的な文章の方が、言葉のチョイスをこれ!と決めやすく、日常会話や情緒を表す情報が多ければ多いほど表現の幅があって迷いやすい、ということなんです。

実は翻訳とは、
本来別々のものを、似たものに置き換えて、理解を促すという作業です。
異なる並行世界を重ね合わせるようなもので、不可能な領域や、限界もあります。

たとえば、バナナがあるとします。
「あなたの言語では、これを何と言うの?」と尋ねた場合、
自分の文化の中にもその果物があったら、
「日本語ではバナナだよ」
「うちの言語では○○だよ」
と、それぞれの呼び方を回答できるでしょう。

こういう場合は単純です。イコールで繋ぐことができます。
ところが…

対象が、その文化背景と切っても切り離せないものだったり、無形のものだった場合には、イコールの関係で表せるものが他の文化にも存在するとは限りません。

たとえば、アメリカの「プロムパーティー」について話したかった場合、現地で暮らしていた人だったらプロムがどういうものかわかっていて、それにまつわる様々な概念やイメージを描くことができます。

一方で、ただ日本語で「プロムは高校の卒業パーティーでね、一大イベントなんだよ」と説明したとしても、それを体験したことがない人にはその空気や周辺情報までは伝わりません。

商品や店などの固有名詞もそうで、たとえば「ウォルマート」と言った場合(今では日本でも西友が傘下に入って馴染みが出ていますが)、アメリカではどんな位置付けで、どんなイメージがあるかなど、その文化の人たちなら共有しています。

でも、できるだけわかりやすいようにと日本文化で対応するものを探して、「うーん…ヨーカドーみたいな感じかな?」と説明したとしても、それは正確に「イコールの関係」にはなりませんよね。


言語について・翻訳について、身を持って体験し、考えれば考えるほど、
言語表現は文化や観念と切っても切り離せないものなのだなぁと実感します。

今では私自身は、
「それぞれの言語をそのままダイレクトに受け取る」
ことの方が自然だと感じるようになりました。
日本語は日本語、英語は英語、○○語は○○語…とそれぞれの別個の世界があって、自分の中ではわざわざ「翻訳」はしません。
翻訳をするのは、人に説明する必要があるときだけ、ということです。


ところで、たまに翻訳家の方の誤訳や、訳の上手・下手が話題になることがありますが、私が曲りなりにも翻訳や異文化交流を経験してみて思うのは、

翻訳で完全に知識不足で「間違っている」ということもあるものの、場合によってはその人が考え抜いた結果として、ある言葉に集約して「あえてこう表現しました」ということもある。
でも、そのプロセスや理由が、少ない語の表現内では理解されずに、単に「正誤」でジャッジされてしまうこともあるだろうなぁ、ということです。

今度どなたかの翻訳を目にするときにはぜひ、
「不可能な領域をも、日本語という形態に当てはめて表現しているんだ」
ということを思い出してみてください。


私の場合、好きなヒップホップ音楽を聞いていると、
「この内容を訳して、説明してシェアしたら、面白いだろうなぁ」
と思うことがときどきあります。
特にラップは、「言葉」の音楽ですからね。
私の好きなアーティストや曲によっては、対訳など存在しないのでなおさらです!

その一方で、
「でも、訳すとちょっと違っちゃう」とか、
「良さが消えちゃうだろうな…」とも感じるので、ジレンマです。

あるラップのリリックの一行を説明しようとしたら、どわっと沢山の補足説明が必要になってしまうこともあり、なかなか先に進めなそうですよね(笑)

それに、たとえばですが「babygirl」という呼びかけを「愛しいキミ」なんて訳そうものなら、時代錯誤感が生じたり、原作と違った雰囲気が漂ってしまうし(笑)、そもそも日本には男性がそんな風に恋人やパートナーに呼びかける文化はないのだから、その点はどうしようもないですね。

そういったノリの違いは、対象の文化にどっぷり浸かってみないと、どうにも橋がかからないものです。


こんなことを考えていたら、先月の「隙間産業的なわれら」という記事で言及した漫画『うる星やつら』の、とあるエピソードを思い出しました。

beats-and-love.hatenablog.com

アニメではなくて原作の方のお話です。
何巻のエピソードだったかは忘れてしまいましたが…

ラムちゃん(宇宙人)のお母さんは地球語がしゃべれません。
ラムちゃんが通訳するのですが、人間の相手(面堂の母)が怒って、ラムちゃんの母に決闘を挑んでいるときも、どういうわけかラムちゃんが通訳すると、それが全てラムちゃんの母には「求愛」として受け取られてしまう…というエピソードがあったのです。
「まぁ、奥さん、女同士でそんな…!(照)」みたいな感じで。
ジェスチャーやマナーの違いも拍車をかけていて。

これはギャグだし極端なケースですが、こういうことって、ままあると思うんです(笑)

お互いの文化背景や、信じている観念が異なると、相手はバカにしたり挑発しているのに、
「まぁまぁ、それはありがとうございます」
みたいなことがあっても、おかしくない(笑)

たとえば、アメリカをはじめ海外諸国には、公式に失礼とされる(そのくせわりとよく使われる)卑語、「curse word」が存在しますが、日本でこれに本当に対応するものがあるか?と考えると、ちょっと見当たらないですね。
(※アメリカの学校では、校内でそれら言葉を口にしたら居残りを命じられるなど罰せられることがある。公共の放送でも「ピー」音がかかる。)

もちろん日本語でも、悪口を言うときの言葉やぶっきらぼうな表現は存在しますが、海外のそれらとは感覚がだいぶ異なっています。
海外のcurse wordには、その文化の人たちの宗教観や倫理観、性向も反映されていることがわかるのです。

留学したとき、現地で「日本語で××××ってどう言うか教えて!」と、嬉しそうにcurse wordの翻訳をせがまれたことがありますが、
「…本当にそれに該当するものは、日本にはないよ…」としか言いようがないこともありました(笑)
そして逆に日本語にするとき、curse wordをそのまま直訳しても、これまた日本人にはしっくりこないし、ださいというか、無理があるというか何というか(笑)


最終的に、やっぱり言葉は面白いけど不自由!で、
完全に伝え合うには「テレパシー」しかない、と私は思うのです。

それでも、言葉をやりくりして楽しむこと(ラップもね)、嫌いじゃないよ(笑)

 

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