BEATS AND LOVE

スピリチュアルカウンセリングとヒップホップ音楽、ライフスタイルや考えあれこれ

ルシファーとキリスト、歴史の中の歪曲

今回は「ルシファーとキリスト、歴史の中の歪曲」です。

前回の記事を書いた時点で、つづきであるこの記事の内容もすでに心の中で受け取っていたのですが、一気に書くとボリュームが多すぎるので分けました。

このシリーズは、全然キリスト教に関係がない人、興味がない人であっても、日常生活の中でどこかしら影響を受けているかもしれない「集合意識的な観念」、ご自身の中にも採用しているかもしれないポイントを含みます。

そういった観念から自由になるきっかけとなればうれしいですし、ただのお話として楽しんでいただくのでもかまいません。私自身は、これを書くことにワクワクしています!

前回の記事「続・ルシファーの話(外を見ているつもりで、内を見ている)」

beats-and-love.hatenablog.com

イントロダクション

まず、ここで私自身の簡単な背景を説明します。かなり昔の過去記事から読んでくださった方には、すでにご存知のところもあるかもしれません。

私はキリスト教徒ではなく、いかなる宗教にも属していません。特定の宗教の、宗教的な教義を心の中でひそかに信じているということもありません。
それぞれの宗教の歴史や伝統、それらが人々にもたらしたポジティブな作用の部分はリスペクトしていますが、私自身は、未来にはいつか、宗教は最終的に不要になっていくであろうと考えています。スピリチュアリティーという観点から見つめると、そうならざるをえないというのが答えです。
宗教は人間にとって、自分が誰であるかを自覚し、ひとりで歩けるようになる前の「杖」のようなものだからです。

私の家族も特定の宗教を信仰しておらず、宗教とは縁遠い生活でした。両親の故郷でお墓参りをする際には、お寺と宗派はありましたが、日常それを意識して生活したことはありません。そんな環境で育ちながらも、「より大きな自己」としての自分を見た場合、特定の関心や縁があったのでしょう。
幼い頃から、ひとりでに日本やギリシャや様々な国の神話、またイエス・キリストについてのお話を読むのも好きでした。他にも、歴史上の人物の伝記や、ごく普通の創作物語も含めて手当たり次第に読んでいたので、単に知的好奇心が旺盛だったとも言えますが。

特に、キリスト教との縁は人生の要所要所で生じていて、なぜか行ってみたくて小学校の友達の通うキリスト教の教会に一緒について行った時期があったり、アメリカでの高校留学中は、ホストファミリーの生活に従う形で教会に通い、その活動にも参加していましたし、大学では(本人としてはさほど深い意図なく)聖書の研究の授業に出たりもしていました。
さらに、精神世界に携わる仕事をするようになってから勤めた会社の縁で、「ア・コース・イン・ミラクルズ」という本にも関わりました。この本は、イエス・キリストの口述をヘレン・シャックマンさんが書き取ったと言われるチャネリング形式の本で、私自身も熱心に学習していた時期があったのですが、途中から自分の考えとのズレを認識してやめました。この点は、現ブログの初期に色々書きましたので省略します。

簡単に言うと、これは誰でもそうですが、現在の「私」という人格には、後天的に身に付けたものだけではない様々な素地があり、それはすでに今認識しているよりも「大きな自己」の中の別の人生などでも培われているのです。この人生ではそれが個性として、「得意分野」や「縁」のように働きます。

「天使」についても、誰かから教えられた「宗教的な」天使のことではなく、子どもの頃から自然にその存在を知っていて親しみを感じていました。

そんな背景を持つ私にとって、自分自身は宗教を信仰していなくとも、現代世界にはなお多くの宗教的観念の影響があるということが見て取れ、それが人々の善悪の判断や人生観、死生観、持続する罪悪感の構造をも作っているということは、興味深いトピックだったのです。

「悪魔」とされた神々の歴史

世界三大宗教のひとつと言われるキリスト教ですが、歴史を見ていくと、人によってはその「横暴さ」に疑問を抱いたことがあるかもしれません。
果たして、これが、愛を説いたイエスの教えに沿っているのだろうか……と。

キリスト教の布教のために、多くの土着の信仰や、その土地ごとの宗教観、スピリチュアリティーが踏みにじられていったことは事実です。

「異端」とされた考えや信仰は、その都度「邪悪なもの」として排除され、禁じられ、罰せられてきました。
お察しのいい方は、ここでもう気づかれると思います。

「邪悪」や「悪魔」と呼ばれるものの存在も、そのときの権力者にとって都合のいい「正義感」に基づく判断によって、「その地位に追いやられたのだ」ということです。

これはキリスト教の歴史に限らず、どの歴史でも起こっていることです。
善と悪は、時代背景や文化、もっと言えばひとりひとりの「観念」の基準によって、入れ替わるものなのです。

有名な魔女狩りもそうですし、その他多くの記録に残っていない、消された信仰や霊的な教えがあったでしょう。彼らの信仰した神々などの象徴や、崇拝の対象であった精霊たちは、悪魔扱いされたことでしょう。
人々は、ときには「押しつけられた宗教と自分たちの旧来の世界観を融合させることで」自分たちの伝統の痕跡を残しました。
たとえば、今では「マリア崇拝」と呼ばれているものもそうで(イエス・キリストの母マリアを崇拝する)、元々はその土地の女神を信仰していた人々が、キリスト教に強制的に改宗させられた結果、女神を崇拝する気持ちをマリアへ託したものと言われています。

余談ですがキリスト教の中では、母マリアの扱いについても、「イエス様だけが神の子なのだから、マリアを崇拝するのはおかしい」、「いや、イエス様を生んだ御母なのだから、ただの人間であるというのはおかしい」など、論争の的になった歴史があります。

全くその世界観に共感しない外の人間から見ると不思議ですが、それが歴史の中では重大事として、真剣に論争されてきたのですね。

ここでは、まずひとつ、善悪の基準とは「絶対」ではなく、信じている観念次第で変わるものだということ、それから歴史上で「悪」と呼ばれ、認定されたものが必ずしも本当に悪を指すわけではないことを、理解していただければと思います。

「まんじゅう怖い」形式で秘密を守る

その一方で、あえて「悪魔」などの恐ろしげな呼称を使うことが「メリット」になることもあります。
これはどういった状況かを考えてみましょう。

たとえば古来、非常に重要な内容・教え等は、一定のイニシエーションを通過できたものだけに「口伝」で授けられたという例があります。
書による記録を残さないことで秘密を守り、書に残したとしても暗号や一定のルールに沿った合意を知らなければ解読できない形をとったのです。

こうすることには複数の事情があったでしょう。

たとえば、その情報を用いるには、当人のしっかりとした準備、心的な成長や身体的な条件も必要で、それが整っていないと扱いに危険を伴うものだったのかもしれません。
あるいは、場合によっては、それを「独占したい」という気持ちから、自分たちの選んだ仲間にだけ、共有したいと考えたのかもしれません。

理由は色々あるかもしれませんが、
秘密にしたい事柄から、人々を遠ざけるにはどうしたらいいでしょうか。

「良いものである」、「素晴らしいものである」という風に見せなければいいのではないでしょうか。

悪いもの、怖いもの、おぞましいものと思わせておけば、人々は嫌悪感や恐れから、ひとりでに離れてくれます。

たとえば、ルシファーを「悪魔」としておけば都合がいい。
それについて「考えるもの恐ろしい!」とさせておけばちょうどいい。
人々は、ちょうど映画ハリー・ポッターの中の人々が使う「名前を言ってはいけないあの人」という態度のように、恐れから「それについて考えない」、「遠ざかる」という姿勢を取ってくれるのです。

それが見出しの「まんじゅう怖い形式」の意味です(笑)
本当は価値のあるもの、自分たちだけが手にしておきたいものを、「怖い、恐ろしい」と宣伝しておく。

何を隠しておきたかったのか

ただ、前項目でもお話ししたように、必ずしも「悪意によって、権力者が人々に何かを隠し、独占していた」とは考えないでください。
「必要な“とき”を待っている」とも言えるし、もし、実際に「独占したい」意図の人々がいたとしても、一方的にそういうことはできないからです。

この世界で「一方的な関係」というのは存在しません。
「受け手」が同意しないものは、現実になりません。
ひとりひとりが現実をつくっていることを思い出してください。

人々が本当に「知りたい」と思ったことは開示されます。
準備ができ、望んだことは、現実になります。

それを踏まえて、引き続き考えてみてください。
古来より、「秘宝」や「錬金術」を求める華々しい物語がありますが、それは一体、何を表すのでしょうか。

それを珍しい財宝のように考えないでくださいね。
地上の富は一時的なもので、あなたに幸せを約束はしません。
少し考える人たちであれば、そんなことはすぐにわかります。

人類の、隠された(本当は隠されてすらいない)宝――
それは、霊性、意識の力です。

自己の存在が消滅するような「死」がないと知ったら?
意識の自由を知ったら?
自分の意識の力で、現実を創造していると知ったら?

誰が宗教の不自然なルールに服従し、それを破ることを恐れるでしょうか。
その幻想のシステムは機能しなくなるでしょう。

現代で、あなたが特定の宗教を信じていない人だとしてもそうです。
あなたがもし、外から繰り返される宣伝や、提示されたイメージ、
「あれを持つと幸せになるよ、これを目指すと豊かになれるよ、これこれに従い、こう生きるべきなんだよ。さもないと罰から逃れられないよ。」
などの何かに耳を貸し、自ら「そうだ、その通りだ」と思ってしまったら、その世界で生きることになってしまいます。

そこで定められた善悪のシステムに従い、そこから「外れる」自分の心におびえ、自分が何者であるかを思い出すことから遠ざかろうとするかもしれません。

みんなが欲しがるとは限らないものを、いかにも素敵であるかのようにアピールをし、そこに集中させるような動きもありますが、そういったシステムが持続でき、有効であるのは、それを「受け、自分の現実に採用する」ひとりひとりの責任なのです。

十字架にかかっていないイエスを考える  

寓話や神話を見ていただくとわかるのですが、ときに「物語」は、人の心の深いところへ象徴的に働きかけます。

たとえばこの世界にとって、「十字架に磔にされたイエス」というのは、かくも偉大な影響を持つシンボルとなってしまいました。

キリスト教徒の方を除き、そのように描かれたイエスの姿を見て、人が呼び起こしやすい感情は何でしょうか。
「かわいそう」とか「痛ましい」とか、人によっては単に「怖い」と感じるかもしれません。

イエスの物語を知っている人で、その後に続く「復活」を肯定していたとしても、少なくとも人生のストーリーの中で起こった試練として、
「イエスほどの人でも権力に勝てず、このような目に遭わされたのだ」という印象は、心の中に刻まれているかもしれません。

これに気づくことはとても重要です。

磔のシンボルから、偉大な霊能力者で、愛の教師であったイェシュアを思い浮かべる人がどれだけいるのでしょうか。

本当の歴史がどうであれ、「磔のイメージが人類共通のシンボルになった」という点が私たちの「今の(集合的な)リアル」で、それが「現実」の元型となっているのです。

イエスもまた、人間の持つ意識の力や霊的能力を象徴していました。
生きている間、それを実際に見せ、人々に思い出させようとしました。 

ところが、多くの人たちの心に鮮烈に残るイメージは「十字架にかかったイエス」です。
少なくともこの並行現実では、そちらのドラマの方が「力を持つイメージ」として採用されました。

それによって、歴史上前面に出されたのは、
「愛=自己犠牲」という誤った構造と観念でした。

教会や絵画で表される磔になったイエスの像を見て、「かわいそうだなぁ」と感じた人はどれだけいますか。そして、それと同時に、それを「尊い愛のシンボルである」と理解するよう「有名なストーリー」は働きかけるのです。そこに葛藤と、歪んだ方程式が生まれます。

「かわいそう」に思う人を愛したり、
「愛」のために、自分がかわいそうな状態に追い込まれて当然だ、
と考える無意識の「元型」を持っている人はどれだけいるでしょうか。

これが歪んだ形であるということに気づくことはできるでしょうか。

先ほどもお話しした通り、「物語」というのは、象徴レベルで私たちの心に働きかけるので、それを受け入れた人はあたかも無意識的に、その中から「学ぶ」のです。

ですから、こちらの可能性も考えてみてください。

十字架にかからなかったイエスの物語を。

多くの人が疑いもなく、ゴルゴタの丘で亡くなったイエスという物語を信じています。
神の子であるイエスですら「非情なこの世」においてはそのように無力に亡くなったのですから、私たちに何ができるでしょう?と、そんな風に思っても不思議はありません。

でも、伝えられているこの物語が「間違ったもの」だったらどうなのでしょうか。
故意に歪められたものか、あるいは、そう信じられてしまったものか…。

たとえば、十分に目覚めた人であったイエスが、死に際して、伝えられている通りの「主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」というようなセリフを言ったでしょうか。(この部分は様々な解釈がされていますが、イエスの意識や観点を理解していれば際立って不自然であると気づく箇所です。)

私は個人的には、イエシュアが十字架にかかって亡くなった話は信じていません。
ずっと、「それはおかしいな」と感じていました。

他にも妙な箇所はたくさんあり、後世の「創作」になってしまっていたとしても、公式の書として影響を与え続けることの不思議をよく考えていました。
それは、他の宗教でも同様ですね。

私自身の考えに沿った説明を載せているものとしては、ブログ内のおすすめ書籍ウィジェットにも入れてある『セスは語る』という本があります。

セスは語る―魂が永遠であるということ
ジェーン・ロバーツ ロバート・F・バッツ 紫上 はとる

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セス(ジェーン・ロバーツを通して語る存在)の説明通りの出来事があったのかどうかはわかりませんが、少なくとも自分の直観に近い方の説明ではあります。ご興味ある方は読んでみてください。
セスは、3人の人間としての「現れ」をとったキリストについて話をしています。
該当箇所はp.377からp.381をはじめ、p.645からp.649(キリストは磔にかからなかったが、そのように解釈されたことについての具体的説明など)、あちこちに散見できますが、理解を深めたい方はこの本の全体を通して読まれることをおすすめします。

たびたび示されるテーマ  

最後に、近年私がたびたび示されているテーマに、「歪められた歴史の見直し」があります。
過去記事ではエジプト王のアクエンアテンや、日本の歴史上の人物についてシェアしたこともありました。

そのように「見直し」が促されているのは、それをすることで私たちの意識の中にある観念の「再編成」が起こるからです。 
具体的詳細の“探求”以上に、そのこと(再編成という質)が重要なのです。
それまで自分の信じてきた常識が変わる、別の見方をしてみるということです。

過去はひとつではありません。
未来がひとつきりでないのと同様です。
幾通りもの「可能性の過去(並行現実)」があります。

あなたは「現在」という意識のポイントから、どの過去を採用するかを選んでいます。
あなたの意識が変化すると、あなたの参照する過去も変わります。

それまで認識していなかった「新しい発見」を過去に見出すとき、あなたの意識が変容したのだと受け止めてください。
普段から、「絶対にこうなんだよね!」と多くの人に信じられていることでも、あなた自身の実感を伴わないのであれば、受け入れずにいてください。

あなた自身の調和したエネルギーに沿った「過去の現実」が、姿を現せるように。


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