BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

共感というものに距離を持つようになると

理解できるということと、共感することとは違う。

共感するということに対する私の思いは昔とは全く違っていて、今ではそうそう何にでも共感するわけではありません。

先に書いておくと、共感というのは自然と内から湧いてくる感情のように見えて、実は、元となる「観念(Belief。あなたが信じていること、前提)」が自身の中になければ生まれません。

心の中に反応の基準になる「方程式」があるということです。
その方程式を「共有」していなければ、共感も起こらないのです。
方程式そのものがなければ、反応は起きません。

仮に、あなたが全く異なる観念の元で活動する別次元の存在だとしたら、「地球世界で信じられている観念」をひとまず基礎として身につけない限り、共感することもできないのです。

また、理解している状態だからといって、必ずしも共感は生まれません。
本人がとある観念を「深く信じ共有して」いるとき、はじめて共感が生まれます。

この点で、今の私とかつての自分の違いを簡単に言葉にすれば、現在私は自分の経験や、自身も過去に持っていたことがある観念から、様々な「理解」は携えています。
でも、現在の自分がもはや同調していない観念に「共感はしない」
というわけです。

観念というのはずっと留まるものではなく、人生を通して新陳代謝のように入れ替わっていきます。
「そういえば私も、昔持っていた観念には今はもう反応できない。共感する内容も、ずいぶん変わってしまったようだ」と、気づく人も、きっといらっしゃると思います。

今回は「共感というものに距離を持つようになると」をテーマにお送りします。

共感する=優しさ、ではない。

この間、「フィクションの世界から、あなた自身のリアルへ(と、私の過去の歩み2)」という記事でも書いたように、私は、昔はどちらかというと物事に共感しやすいタイプであるという印象を、自身に持っていました。
もちろんその頃であっても、共感が起こる内容は、自分の内にある観念や考えに沿っていたわけですが。

そして何よりも今と違うのは、かつては、そういった「共感」を優しさの証のように誤解していた気があるという点です。
これは逆にいえば、「共感しなければ優しくない」ということにもなってしまいます。
また、感受性の豊かさや繊細さと、共感しやすいこととを、混同していたように思います。

救命士が、救出する相手と同じ痛みに泣きながら冷静な仕事をこなすことはできないように、今では「理解することと共感は違う」とはっきり認識しています。

痛みやつらさ、苦しさをわかっている。全く同じ状況ではなくとも、根底が共通している何かを経験したことがある。そのシステムも知っている。
だから、適切な処置をすることや、アドバイスをすることもできる。
そうであっても感情的に巻き込まれないことを、ここでは「理解」と呼びます。

「感情的に共感しないからといって、理解していないわけではない」し、「理解しているからといって、感情的に共感するわけではない」ということです。

人間世界の集合的な観念では、このことが未だに混同されている実態も見られます。

感情的に巻き込まれることが「優しさ、繊細さ」で、淡々と物事をこなしたり、感情的反応を示さないことが「冷たさ、図太さ」と見なされるなどです。
これもひとつの観念ですが、多くの人が共有しているイメージにもなっています。

もし、あなたもそんな方程式を持っていたら、どうなるでしょうか。
あなたが優しくあるためには、「感情的に巻き込まれなければならない」というルールができてしまいます。
そして、意識の中でそれを現実に、実現してしまうのです。

共感力のせいで苦しんでいる、と思うとき

以前、「エンパス(共感能力者)」という話題を記事で扱ったことが複数回ありました。

2014年に書いた関連記事のひとつです。ご興味ある方は、こちらもご参考にどうぞ。
「憑依体質やエンパスによる不調は変えられます」

beats-and-love.hatenablog.com

エンパシー(共感力)というのは特別なことではなく、誰にでもあるものです。
ただ、それがあなたを苦しめるようなら、あなた自身の内に、何か不調和な観念を保持しているということです。
自身に負担であるいうことは、余分な観念を抱え込んでそうしているということです。

あなたが何かに同調するとき、それを「自分で選べずに、自動的に巻き込まれる」としたら、あなた自身が同じ観念を信じているために「反応している」ということです。

心の中で、どんな前提、方程式を信じているか、確認してみましょう。

人からの共感を求めるのは、自分を信じていないとき。自分の弱さや、力の無さを信じているとき。

想像してみてください。
心底から幸せを感じている人が、他者に「私って幸せでしょ?そうでしょ?あなたもそう思うよね?」と、共感を求めるでしょうか。

自分自身が「これ、すごくいい!」と、よろこびに浸っているときに、他者からの共感を必要とするでしょうか。
あなた自身が素晴らしいと思っているので「分かち合いたい」という気持ちが湧くことはあるかもしれませんが、そうしたところで、あなたと同じように感じる人がいても・いなくても、本来自由なはずです。

ところが「私と同じように感じてくれないあなたはひどい」とか「冷たい」とする方程式は、けっこう世の中に蔓延していますよね。

自分の子どもやかわいがっているペットの写真を見せて、無反応だったら「冷たい人だな」と思うとか。
子どもや動物に心を動かさないなんて心が無い、と捉えるとか。

自分が何かつらい状況に陥ったときに、自分自身の思うような形で「同情」してくれない人は「友達じゃない!」とか。

人それぞれ色んな考え方、色んなその人なりの経験がありますから、何を優しさや礼儀の表現とするかも、異なっています。
それゆえに、「共感を強いる」のは、「自分のあり方が正しい」という前提の下にある傲慢さなのです。

さらに掘り下げると、そこには「自分を無力である」と信じる思いがあります。

自分ひとりで自分を信頼することはできない。
だからこそ、人に「そうだ」と言ってほしい。認めてほしい。

残念ながら、これはあなたを幸せな状態には導きません。
束の間の満足はあっても、すぐに崩れます。
常に、自分を肯定する人を「外に探さなくてはいけなくなる」からです。

また、自分の思ったことと違うことを主張する人がいれば、その都度心を揺らしたり、あなたが十分に好戦的であれば、戦ったりすることにもなるでしょう。

こうした試みをすべて終結するためには、「自己」に向き合い、
何が自分をそんなに不安にさせているか、その根源を自覚するしかないのです。

すべて同じように共感できる人なんて、いないんだよ。

あなたにどんなに愛する人、心を開いた相手、仲の良い人ができようとも、あなたと全く同じように物事を感じ、「共感を表す」という人はいません。

それをあなたは誇ってもいいのです。
あなたは、唯一無二の存在だからです。
創造の、他にないエッセンスだからです。

そして、あなたの周囲のひとりひとり、誰もがそうです。

それは孤独ではなくて、よろこびです。
そうわかると、他者の輝きにも驚嘆することになるでしょう。

「心をひとつに」、ええ、美しいですね。
でも、その「ひとつ」に見えるものの中身は、色々違っていてもいいんですよ。
内心はそれぞれ違うことを考えていたって、それを誰も責められないし、責める必要もない。

人に同じように感じてほしいとか、同じように考えてほしいとか、特定の反応を狙ってみても、本当はいつも例外があるし、その試みが成功したように見えたときですら、表面に見える反応の内側はひとりひとり異なるもの。

ちなみにこれを自覚すると、ちょっとした文章でたとえを「例示」するにも、
実は、「う~ん、でも、そうでもないな」とか、「ほんとは私ならこう考えないけど」などといったバラエティーに富んだ発想が常に出てきてしまって、困難を覚えます(笑) 

どんどん「一般化」という行為が難しくなるし、そうしているときの自分すら滑稽というか、「そう思ってもいないのに、地球的なふりをしている」感覚になってしまうんですよ。

地球的なふりを演じる自分が、ときどきちょっと滑稽に思える皆さん、
講座にもぜひ来てくださいね。

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