BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

フィクションの世界から、あなた自身のリアルへ(と、私の過去の歩み2)

私は近年、明らかに「フィクション」に入り込まなくなったなぁ、ということを考えながら、連想的にこの記事を書きました。
後半では、私個人の人生についても綴っています。

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あなた自身のリアル

この現実を確かに生きながらも、自身の意識に抱く「フィクションの型」を実現しようとしてしまい、自分自身から逸れてしまうことがあります。

それは「本物」のあなた自身を生きているとは言えなくて、誰かから借りた筋書き、お手本に添おうとするということです。

対して、あなたの中の「リアル」は確実に存在していますが、それは言い換えると、あなたの内から湧いてくるエネルギーと一致して生きるということです。
外の表現と内の表現が調和して、整合性が取れているということ。

こうした生き方に開眼すると、自ずと他者についても「その人自身を生きているか」それとも「何かのモデル(お手本)に従っているのか」、感じ取るようになるでしょう。
判別しようとする意図がなくとも、副作用のように、そのことに気づきやすくなるのです。

そのときにも判断基準、「型」が存在するわけではなく、ただ相手から感じ取るエネルギーの響きによってそう知るのです。
「大成功」しているように見える人が、エネルギーは不協和音を奏でているかもしれないし、特に変わったところのない人生を生きているように見える人が、エネルギーは素晴らしい調和に満ちているかもしれません。

そういった観察は興味深いものですが、前述のように副作用的な効果にすぎず、あなた自身ができることはいつでも、自分のエネルギーに照準を合わせることです。

人間世界の観念におぼえる違和感。それはあなたがどう生きたいかを教えてくれる。

スピリチュアルな観点からお話しすれば、あなたは自身の選択によってこの世界に誕生し、「地球ゲーム」に参加しましたが、だからといってもれなく、「この中で信じられているあらゆるルール」に従わなければならないというわけではありません。

むしろ、そのルールを変化させたり、別の形を表現することによろこびを見出す人もいます。

その場合、今あるルール(採用している観念)が自分に合っていないな、苦しいなという感覚を認めることが第一歩で、そこからあなたのパワーが発動します。

その道の途上にあるとき、あなたは最初はひとつのお手本を捨て、別のお手本や参考にできる型を探そうとするかもしれません。型を取り替える試みです。
そうして出会った自分がこうありたいと描く世界のリーダーや、何かを成し遂げた人を見て、「そうだ、これだった!」と思い、今度はそのモデルに自分自身を合わせようとします。

ところがそういった傾倒の仕方では、いかなるモデルも「あなた自身ではない」ので、いつかその対象に失望したり、違和感を覚えて離れたりすることが起きるでしょう。

こうした「希求」の間は、すでに故人となっている歴史上の人物(もはやこの世にいないので幻滅の可能性が少ない)、 もしくは本や映画などのフィクションの中にも、あなたのお手本を見つけようとするかもしれません。

しかし、そうして外に向かっているように見えても、あなたが本当にしようとしているのは、「あなた自身を知ること」です。

あぁ、すべては私を発見する試みで、
自分がどう生きたいかを確認しているんだ。

そうわかると、あなたの世界は、あなたに語りかけてくるようになります。
また、自分の心に響くか否かによって、必要なものと不要なものをはっきり識別できるようにもなります。

中身の詰まった体験と、空っぽの体験と

すると、あなたにとって「中身の詰まった体験」と、「空っぽの体験」とが存在することも、これまで以上に明らかになります。
自分の心の充実と、非・充実(虚しさ)の違いと言ってもいいでしょう。

もちろん、ある人にとっての「中身の詰まった体験」が、あなたにとっては「空っぽの体験」になることもあるし、その逆もあります。
それは個々人のエネルギー、意識に抱く目的や、個性が違うからです。

世界には、沢山の「幸せのモデル(型)」が存在します。
あなたはそれを、様々なメディア、広告や番組や、本や映画などの作品の中にも見るかもしれません。

それらの型を、ただの「型」としてあるがままに認識し始めると、「型から型を追い、沢山の型であふれたプールの中で泳ぐ者」から、「プールから上がって、様々な型を眺める者」へ、あなたの立ち位置は変わります。
どこに視点を置くかが変化してしまうのです。

すると、それらの型を構成するための材料、元にある「観念」までもが見えてきます。
こうした観念を持つと、こういった世界観が作られる。
その方程式からは、「これが幸せである」という「解」、「目標」もできるんだ……と。

視点が変容すると、これまで感動していたはずのストーリーに感動できず、疑問を覚えたり、
小説や映画などのフィクションにほとんど共感できなくなったり、描かれたハッピーエンドも、本当にハッピーなのかと不思議に思ったりするようになるかもしれません。
その中にある「観念」をもクリアーに読み取ってしまう上に、自分自身はもはや「その観念を採用していない」ことが多いからです。

「人間世界で多く用いられている考え」「集合的な観念」に同調しなくなると、あらゆる「人間ドラマ」に、かつてより入り込まなくなるのです。

そんなあなたにとって、過去には意味を持っていた様々なことが「空っぽの体験」、重要性のない「フィクション」同様に変化する一方で、あなたの心に手応えを感じさせる「リアル」な体験の意義はより深くなります。

自分にとって、何が「生きながらに死んでいる」状態で、何が「本当に生きて」いる状態か、明確にわかるのです。

スピリチュアリティーを体現すると「不都合」になること

これは、過去に作り上げた「世界に合わせた自己」にとっては、とても不都合なことです。

あなたはひょっとするとこれまでに、人に求められる内容に応えた自分、集団にとって都合のよい自分、相手のキャラに合わせた自分、友人や家族の見方に沿った自分……色々と作り上げてきたかもしれません。

誰と一緒にいるか、どんな場にいるかのTPOに沿ってあなた自身が変化することは、ある程度ならば自然です。あなたはその場その場のエネルギーに自己を調和させているからです。

でも、その自然な振り幅はごくわずかであって、あなたがもし、コロコロと自分を変えてしまうなら(あるいはその必要を感じて苦しくなる場合には)、あなた自身に「恐れ」があって、そうしないではいられないということです。

こうしたことに自覚的になると、一時的にあなたの世界は、あなたによって「再評価」の眼にさらされるでしょう。
二度と同じ感覚で世界と向き合えないことは、ショッキングですらあるかもしれません。

もっと「みんなと」手を繋いでいられた、旧世界へ戻りたいと考える可能性もあります。
同じダンスを踊り、歩調を合わせ、同じように考えて一緒に笑い、泣く……それが幸せだと。

たとえその旧世界がとてもつらかったとしても、連帯の感覚、「みんなと同じ歯車を回せる」という安心感は少なくとも与えられるということを経験済みだからです。

でも、あなたの内は正直です。もはやあなたの「リアル」はそこにはないと、教えてくれるのです。

保持している代替案、心の中にある「フィクションの人生」に気づく。

ここからは、私個人にまつわる話も織り込みます。

別の道を用意するのをやめるとき

人によっては、今目の前にある人生のほかに、心のどこかで「何かあったらこれを」と思っている代替案、別の道を保持していることがあります。

たとえば、過去記事で著書をご紹介した自然栽培の木村秋則さんは、りんごの無農薬栽培への道を歩みながらも、ある時点まで「税理士」の可能性も完全に捨ててはいなかったそうです。
今回のテーマと共にその内容を思い出しましたので、該当箇所を、本「すべては宇宙の采配」58ページ、「ハガキ」の章より引用します。

『この儀式と前後して、高校時代に得た税理士の「次点」のハガキも焼きました。
ひとり娘の女房と結婚して婿に入るには、必然的に農業を継がなくてはなりませんが、ハガキや勉強道具は捨てずに置いておいたのです。

いまさら本気で税理士を目指そうとは思っていませんでした。思ってはいないけれども、自然栽培でりんごを作る方向に動き出したときに、心のどこかに、「もしダメなら、こっちの道もある。ダメならこっちで飯を食おう」という気持ちがあったことはたしかです。

逃げ道を作っていました。
そんな思いが自分のなかにある限り、成功はしないのではないか……。
無農薬・無肥料の栽培を始めて3年目のころです。
なにをやっても上手くいかないある日、急にそれが気になりはじめ、
「こんなものを持っているからダメなんだ!」
経理の用具の一切合切を畑に持ち出し、どんどん焼いていきました。

日々蓄積されていくフラストレーションやストレスを発散させる行為に過ぎないかもしれませんが、焼却しないと気が治まりませんでした。

ハガキが出てきたとき、一緒に見ていた女房が、
「これだけは焼かないほうがいいんじゃないの?」
と躊躇しました。わたしは、
「いや、徹底しなきゃダメだ」
といって長い火バサミでハガキをつまみ、火にくべようとしました。

その瞬間、考えられない勢いでジュッと燃えて、一部がはらはらと崩れていったのです。
燃えたのはわたしを識別する数字のところでした。(以下略)』

本はこちらです。「すべては宇宙の采配」 

すべては宇宙の采配

すべては宇宙の采配

 

私にも、それに該当するものがありました。

それは「書くこと」、それもライターや記者ではなく(それらは仕事の成行きで経験済み)、自分で物語を創作する「作家」でした。

ある頃までは「作家、もしくは漫画家」を候補にしていましたが、比較的早い時点で「漫画を描く根気は私にはない」と悟り、漫画家の可能性は考えなくなりました!

作家といっても、大人向けの小説・文学は「昔のものの方が質が高い」と私は感じてしまい(個人の好み)、現代小説への熱意が生まれず、児童文学を想定していたこともありました。
というのも、早くから私には「本当に面白い小説は、子どもが読んでも面白いものだ。難しい言葉や技巧に頼らなくとも、すばらしい作品は書ける」という考えがあったのです。
私自身が小さな頃から読んでいた古い文学はまさにそうで、わざと小難しくなどしない平易な文章でありながら、表現に含まれているものが思い浮かぶ、そんな体験をしました。
子どもの心にも響いてわかる、残るものがあったのです。

心のどこかで、作家の道は残していた

そのような子どもの頃からの漠然とした意向に加え、実際に「書くこと」で人生を助けられた体験も、かなり多くありました。
私にとっては「音楽」と、「書くこと」とが両輪のように自分の人生を支えてきたのですが、どちらかというと音楽が純粋に自分自身の喜びなのに対し、書くことはより社会的、実生活で役立ったり、周囲に評価されやすかったという違いがあります。

それはたいてい自分にとって意外な形で起こったのですが、何度も支えられてきたことは事実です。

ピンチの中だからこそ印象に残った経験を挙げると、アメリカへの高校留学中、当時「英語を話す」ことはからっきしダメだった私でも、「English」の教科の英語で書く作文や詩では、同学年のネイティブ達より良い評価をもらったり。
大学時代、望ましい選択肢が何もなかった中で、自作の小説を提出することによって、成績順では通らなかったはずの専修へ入れたこともありました。

背景を説明すれば、私がいた頃の早稲田大学第一文学部では、2年生から各専修に分かれるのですが、その当時は「文芸専修」が断トツに人気が高く、他にも人気の専修は応募者の成績順でしか入れなかったのです。

個人の諸事情ですでに欠席が多く、取得すべき単位もギリギリで取っていた私は、希望人数の多い専修はどれもあきらめなければならない、不人気の専修にしか入れない状況でした。

しかし、ただでさえ大学で学ぶことへのモチベーションがほとんどなくなっていた私が、全く興味のない専修へ入ったらどうなってしまうかは、目に見えていました。
そんなとき、文芸専修に限り、その専修の性質から「提出した作品が選ばれたら、成績に関係なく入れるという形式も設けている」と知ったのです。

競争率は高く、それに落ちたら自動的に、そのときでもまだ残っている専修に入るしかないのですが、 他に望ましい選択肢のない私は作品を書いて提出し、そして通りました。
一緒に応募した周囲の友人たちは、成績が良い人も、作品を提出した人も皆落ちていたので、このときも「こんな風に、書くことが自分を助けてくれるんだ!」と認識したのでした。

とはいえ、当時の文芸専修の先生は、専修全体の最初のオリエンテーションのとき、「応募作の多くが、小説にすらなっていなかった!」と苦言を呈していたので、選考対象となった作品全般のクオリティーは低かったのかもしれません!
自分が提出した作品も、もう内容を細かく覚えていませんが、先述のような事情で苦しまぎれに書いたわけで、全然良い出来だとは思わなかったため、受かったことが意外でした。

文芸専修には作家を志している人が多くいて、授業も小説や批評を書くことを意識した内容でしたが、私は「小説の書き方なんて、人から学ぶものなんだろうか?」などと思ってしまい、残念ながら入ってからもモチベーションは生まれませんでした。

後に何年も経ってから気づいたことは、私は本心では、大学自体入りたい人ではなかったのだということです。
当時の環境的に「大学に入らない」という選択肢がなかったし、自分のそんな気持ちを自覚もしていなかったというだけで。

「大学に入る」ことを前提にすれば、入ってから何を学ぶかという考えも出てきます。
そう想定した範囲内では、私にとっては文学が思いつく選択だったのでした。

入学する際、今思えば他にも複数の魅力的な大学(自分をよく知ってから眺めると、実は、より私に合っていたかもしれない)に合格していながらも、あえて早稲田の文学部を選んだのは、やはり日本文学にフォーカスする意識があってのことでした。
ところが、入学後にはその気持ちは消え失せてしまい、「大学そのもの」が自分にとっては「空っぽ」の体験だったのです。

友達ができたり、サークルに属してみたり、一通り学生らしいことはやってみましたが、後々まで私の心に残ったのはそれらではなく、授業中にまれに訪れた不思議な幸福感の方でした。
講義を聞いている最中に、不意にそういった感覚に気づくことがあったのですが、それは講義内容には関係なく、そのとき感じていた場のエネルギーと視覚的なヴィジョンとが合わさって味わっていたもので、その「静かな輝き」を今でも振り返ることができます。

他には、児童文学作家の方が講師をつとめる夏期の特別授業を取ったことや(先述のように、私はかつて児童文学作家の道も考えていたので興味がありました)、文芸専修に入った後に、当時授業を教えていらっしゃった作家の阿刀田高さんを校舎でお見かけして、長年母がファンだったので、「ご本人だ!」と嬉しかったことなど記憶に残っています。

このようにかいつまんで思い出を語ることはできるものの、自分の中で大学は本質的に意味を持たず、他の経験より薄味のものでした。意義があったのは、そこではっきりと感じた「自分の人生への違和感」の方だったのです。これじゃないと認めることは、本当に歩みたい方向へ踏み出すきっかけにもなります。

結局私は中退し、その頃にはもう働きながら知り合った、同年代であっても学生でない人たちとの方が気が合い、彼らから学び取ることも多くて、自分の世界も関心もとっくに別なところにありました。
(その頃していた仕事は、精神世界・スピリチュアル分野とは無関係。こうした分野に携わるもっと前の話です。)

中退の際のエピソードなど、関連した過去記事はこちら。↓
「絶望世代がもの言ふ!」(今は何にも絶望してないですよ 笑)

beats-and-love.hatenablog.com

とはいえ、後の人生でも、書くことで可能になった出会いがあったり、仕事の幅が広がったりと「書くことは自分の人生に役立つ」という経験が続いたために、やはり「作家」という道は奥の手で残っていたのです。何もできなくなったら、それがある、という思い。

もしかすると一般的には「その方が狭き門だろ!」と思われるかもしれませんが、私にはそれまでの経験上、この発想は「実際的」だったのです。
少なくとも、他の職業より自分の人生には現実的でした。
個人のこうした感覚とはバラエティーがあるもので、自分自身が「できると思っていること・できないと思っていること」の線引きは、各人すごく違うものですよね。

ただし、木村さんの例でもちょうど書かれていたように、私もそれがもはや「自分自身が実現させたい願いなわけではない」にも関わらず、「可能性」として心の中に残しておくことで、ある種の逃げ道を設けていたと思います。

こうした「別の道」が、本当にあなたが「いつか実現したいと心にあたためている夢」であるならば、なくす必要はないんですよ。それは今回のテーマと違っています。

私が最近、こういったことをしみじみ実感し、明確化せざるをえなかったのは、
フィクション全般を面白く感じなくなったということに思いを馳せるうち、「物語を創りたいという思いが、そもそも私には全く無いんだ!」と改めて気づいてしまったからです。

このブログのような文章を書くことは、何の苦にもなりません。
けれども、「何かフィクションの物語を創ろう」と考えると、興味が失せるのです。
そこには、人の心の葛藤や色々な心理劇そのものに、共感できなくなったことも大きいです。

スピリチュアリティーに自己を開けば開くほど、集合的に受け入れられている観念とは異なる「ものの見方」が定着してしまい、鑑賞する側としても、まず小説等が面白くなくなり、続いて映画などもおおよそ退屈になってしまい、その感覚はどうしても止められませんでした。

そして、振り返ると、そうなってからもうけっこう長いのです。
一体、自分が最後に「創作のストーリーを書きたい」と思えたのはいつだろう?
だいいち、「作家」という自己イメージは、どこからやってきたのだろう?
それすら、発端があやしくなってきました。
自身の心から湧く願望というよりも、器用にこなせて周りからも喜ばれる「得意分野」だったことが大きかったのかもしれません。

本心から希望してもいないのに、「できそうだから」という理由で、フィクション的に「別の人生」も心の中に残しておくというのは、自覚してみるとけっこうおかしなものです。

そのくせ、そういった「代替案」は、「いつかやった方がいいんじゃないか」みたいな形で、ちょっとした縛りになっていることすらあります。

あなたも、「望んでいないのに、残している道」に心当たりはありますか?

フィクションに心を逸らさなくとも充実する、地道な一歩一歩 

今では気分転換に映画を見たりしても、そのとききりの印象で、何も残さずきれいに心が切り替わってしまいます。 

思えば、昔の自分はかなり入り込みやすい、共感タイプだったと言えます。
フィクションの作品と知りながらも、その中で体験しているかのように感じることが多くありました。そして、深く感情を揺さぶられていたのです。それはもちろん、共有している観念も多かったからだと言えます。

それが昨今では、一度見た映画の内容を忘れて「どこかで見たことあるなぁ」と思いながら、初めてのつもりで途中まで見ていたことすらあります(笑)
昔の自分なら考えられないことです。

ときどき鑑賞した中で「これは良かったな」と思う作品を記事で紹介したりしているものの、それらであっても、かつてに比べるとインパクトは軽いです。
完全にエンターテインメントとして、右から左へ抜けていく感じ。

近年のお気に入りだと、過去記事に書いたジェニファー・ローレンス主演「ハンガーゲーム」シリーズは、原作は読んでいないものの映画は最終作まで一通り、何回か見て、ちょっとしたマニアと言っていいほど詳しくなりました。
1、2が好きだったので珍しく全作見たのですが、途中から私としては若干残念な展開で……でも、最近になって、「姉妹の絆から始まるおすすめ映画」という話題で妹に教えたところ、彼女も全作見てくれて、ネタバレを気にせず思い切り語り合えたのが嬉しかったです(笑)

「ハンガーゲーム2と『この世界』」

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さて、いつからか私が、フィクションに入り込まなくなって、人生がつまらなくなったか?というと、そんなことは全くないです。
むしろ、今の方が幸せで、自分にとって本当に価値があるものの体験は深まっています。

フィクションを好むか・好まないかというのは個々人異なることですから、それがこの記事の本題ではありません。
お伝えしたいのは、本当に意識を向けたいこととそうでないことの違いを自覚することは大切で、自身の意識フォーカスの使い方は、人生に影響するということです。

こちらの過去記事も、映画を紹介しながらのものですが、読み返してみるとこの度のテーマと共通の内容を含んでいました。
自分の進む道について、考えるところある方におすすめです。
一見、きらびやかではないかもしれない「地道な、目の前にある現実」の価値を、再評価する気持ちになるかもしれませんよ!↓

「近道をしないという近道☆」

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