BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

【シリウス、プレアデス編】歴史を見るときも魂の観点を覚えておくこと

さて今回は予告通り、シリウス・プレアデス編です。
前半には、アヌンナキの話題も補足しつつ。

講座の内容とは重ならないようにしたいので、記事では、それぞれのグループについての私の見解や雑感を中心に書きます。

11月5日の講座はこちら。お申込み受付中です。

beats-and-love.hatenablog.com

ミスがあって消した3つ前の記事には大事なことも書いていたので、その成分も今回の記事に加えます。
それが、タイトルの「歴史を見るときも魂の観点を覚えておくこと」の部分です。

自分がその立場になってみよう(別の自分自身という観点で眺める)

ここ数回は、シュメールの神話でアヌンナキと呼ばれている、他の星から来た存在たちについてふれました。
彼らと人間との関係が原型となって後世に影響を与えた部分もあることは事実ですが、それにしても彼らの存在を認める情報の中にすら、偏った見解も多いです。

一例を挙げれば、アヌンナキを支配者や諸悪の根源と見なす、「アヌンナキ陰謀論」のような情報には注意してほしいですね。

理解する必要があるのは、何かを「敵」と見なすとき、その観念に自分が捕まっているということです。
つまり自分の観念の中で、「敵」と想定するものに自分自身の力を投影させているんです。

それは対象となる存在への「期待」でもあり、「過大評価」でもあるのです。
自分の持っている能力に目をつぶり、相手へ期待するということ。

結局のところ、地球の歴史も、人類の織り成すドラマも、
魂の観念からは「地球劇場での劇」なのです。

そこに参加する誰もがとしては平等で、地球人でも異星人でもありません。
舞台裏では、出演者(俳優)の誰もが、「演じた役そのものではない」のと一緒です。

その観点から見ると、アヌンナキなり特定の異星人なりに大きな力を持たせて陰謀論的な考えを信じることは、
人間の選んだあれこれについて、一部の参加者(例、アヌンナキ)に責任かぶせすぎ!
という感想をもたらします。

生物的に、人間という「種」の創造ということを考えたとき、アヌンナキと呼ばれる存在たちに焦点が当てられるのはわかりますが、彼らが「入植」したときの様子というのも、神話などを元にリアルに想像するとなかなかに「胸アツ」であり、いつか地球人類も、「別の星を発見したときに」自分たちなりの形で体験するであろうことなんですよね。

アヌンナキのストーリーを読んで、私が思い出したのは、漫画の「ぼく地球(ぼくたま)」!

『僕の地球を守って』日渡早紀白泉社 

ぼくの地球を守って (第1巻) (白泉社文庫)

ぼくの地球を守って (第1巻) (白泉社文庫)

 

私が初めてこの漫画を読んだのは、小学生の頃、夏休みに遊びに行く父方の田舎で、でした。
いとこの部屋に全巻あって、遊びに行く度、すっごく面白くて夢中になって読んだのですが、小学生だったので完全に内容を理解してはいなかったと思います(笑)
ところどころ難しいな、と思ってわからないまま読んでいた箇所もありました。

それが大人になってから、妹が文庫で全巻揃えて、貸してくれたんですね。
大人になって読んでもやっぱり面白かったけど、子どもの頃とは印象が違っていて、登場人物ひとりひとりを別な視点で理解できるようになっていました。
そんな自分自身の変化も興味深かった、思い出深い作品です。

……それで、アヌンナキとぼく地球、どこが重なるか、です(笑)

規模も設定も全然違うけど、同じ星から来た仲間である少人数の中で意見が割れたり、恋愛が起こったり、母星以外の基地で様々なストーリーが展開していく、そのドラマが感覚的に似ているな~と思ったんです。

漫画内では途中から「基地にいるメンバーが帰る母星は、滅びてしまったかもしれない」のですが、アヌンナキとて、娯楽で地球に来ていたのとは違い、こういった心情にはやや近いものがあったかもしれないですね。

以下は、雰囲気だけ漫画と重ねつつも、具体的にはアヌンナキの話ですが、
地球にやってきたメンバーそれぞれが恐れたり、希望を抱いたり、故郷の星のみならず地球にだんだん自分なりの愛情を持ったり……「人間」を作るなんて、ダメだよ!ともめたり、でも「パイオニア」になる人は必ずいて、地球人間種を作ってしまう。
元々の意見の割れは、あとあと人間に対する方針にも影響して……と、何とも面白いじゃないですか!
そういう意味で、私はシュメール神話に書かれたアヌンナキの姿には「胸アツ」なのです。

もしも、アヌンナキに怖いイメージを持っている人がいたら、自分が彼らだったら?と想像して、彼らをどこか切り離した所に位置付けするのではなく、自身の「延長線上に」置いてみてほしいですね。

どんな存在もそうですが、魂の観点では、「みんな同じ魂という仲間」ですから。

そして、「アヌンナキのみに焦点を当てすぎない」という点ではもうひとつ、明らかに言えることとして、人類の歴史には他の多数の星の存在たちも関わっているという背景があります。

これからその代表的な2種、シリウスとプレアデスについてお話しします。

シリウス、プレアデスの中にも多様な種がある  

シリウスにしてもプレアデスにしても、それぞれのグループにはたくさんの種があり、本来は単純にまとめて語ることはできません。
例を挙げると、地球人について「こういうエネルギーである」と総じて述べるのは難しいし、それが「太陽系の存在について」のまとめとなったらなおさらですよね。

ですからシリウス星系、プレアデス星系の存在について、私が感じたことのあるエネルギーという側面のみを書きます。

シリウスとプレアデスのエネルギーは、私が精神世界・スピリチュアル分野で仕事をするようになってから、すぐに明らかに識別できた「異星のエネルギー」でした。

それは単に、両文明の名前がこの分野で度々出てくるから、という理由ではありません。
シリウスもプレアデスもその印象付けというか、香り付けというか、独自の特色があって、「人類に深く関わってきた」ということが際立って明白に感じられたからです。

多くの人が名を聞いたことがあるであろう、レムリア文明やアトランティス文明にもシリウスとプレアデスとが、がっつり関わっています。

また、私の感覚では、もちろん日本の文化や信仰にも両文明が影響を与えていることは多く、たとえば、ざっくりと分けて稲作中心の弥生文化系にはプレアデスのエネルギー縄文文化系にはシリウスのエネルギーの影響を感じます。

他の星系の文明も関わっていますが、ここではプレアデスとシリウスのみに言及します。
また、これらの情報は私自身の感じていることに基づいています。

シリウスと海洋民族、タトゥー文化

シリウスと縁が深いのは、縄文の民や海洋民族で、大雑把に見分けると、「元来、タトゥーを入れる風習がある文化」が関連していることが多いです。

タトゥーの風習を持つ文化とシリウス文明との繋がりは、私が漠然と感じていたことですが、後に交流を持ったシリウス人のREDさんからもそれを示されました。

REDさんを含め、交流のある存在たちの一部を、こちらで紹介しています。↓

beats-and-love.hatenablog.com

実は私は、シリウス文明には生来の親しみがあり、そのエネルギーとの調和しやすさを感じているので、古来タトゥーの風習がある文化についても、不思議と繋がりを感じることが多いのです。縄文?弥生?と聞かれたら、なぜだか縄文派ですね(笑)

余談ですが、現代のタトゥーについても日本では見られがちな偏見を持ったことがなく、それもあってか自分の人生を振り返ると、身近にタトゥーを入れている人がわりと多くいました。
ファッション関連の仕事の人や、アーティスト、趣味で入れている人、色々いましたが、誰もヤクザ関係の人ではありません。

ただ、今も日本では、職場によっては働くときにはタトゥーは隠さなければならないし、温泉やスポーツジム、そしてプールのあるレジャー施設には入れないことが多いので、タトゥーを入れた人たちはそういった制限を受けることになるんですね。
タトゥー文化を肯定している自分としては、その規制はもう改めようよと思います。

もちろんタトゥーは一度入れたら容易には消せませんので、気軽なファッションというのとはまた違う性質で、たとえ後から気に入らなくなっても、別の絵や模様を重ねたりするのは難しいデザインのこともあります。本人になじんでいるタトゥーは素敵ですが、私自身はそのときどきで異なる好みを持つタイプなので、ずっと同じタトゥーが体にあるということは自分には向かないなぁと思っています。

シリウスとプレアデスのエネルギーの違いの例

シリウスとプレアデス、どちらも人類への影響の大きいエネルギーなので、一緒に記述していますが、シリウスのエネルギーとプレアデスのエネルギーはかなり違います。

私から見ると、たとえば「和をもって貴しと為す」として、平和のために法律を定めるようなあり方は「プレアデス的」と言えます。
共通のルールを守ることを優先し、争いを避けてグループの和を保とうとする感じです。

一方でシリウスは、プレアデスよりは独立的、基本的には平和を好みながらも、場合(動機)によっては別々の道を行くことも辞さないという部分を感じます。

これは平和に対する観念の違いです。

正直、好みもあるでしょうが、私はシリウスの持つ性質の方に「奥深さ」を感じるのです。
善悪二元論や、光と闇なら光を選ぶ!とう単純な思考ではなく、どの側面も含有した深みを、シリウスのエネルギーからは汲み取りやすいのです。

弥生文化が優勢になった後の日本はプレアデスエネルギーの影響が強いと私は感じており、それは現在の神道天皇家といったシステムのエネルギーからも感じ取れます。

あくまで「現状の」神社と寺の違いから見るなら、寺の方がシリウスのエネルギーをやや強めに引き継いでいるように思えます。仏教の源流にシリウスのエネルギーが混ざっていて、インドの文化などにもその一部が見られます。

これももちろん、実際には双方が「ミックス」されている上に、前述の通り、どちらの文明の中にも多様な異なる種があり、加えて他の星も関係してくるので一概に言えませんが。

また、シリウスの文明は、今では非物質的な次元に移ったものもあって、エネルギーも関与の仕方も変化しているでしょうから、ここでお話ししているような人類への影響は、「痕跡」と言えるものかもしれません。
現在のシリウスはまた別、ということです。

プレアデスの教えた善から飛躍すること

プレアデスの中にも様々な個性があって、自分にとって心地よいと感じるエネルギーもあるのですが、「善意で」押しつけがましいのではないか……と感じるプレアデスのグループも存在します。

一例として、アセンション」のアジェンダを推進しようとするプレアデスのグループによくそれを感じていました。

自然と起きるアセンションなら別にいいのですが、彼らの推進するやり方はそれとは違う意図を感じるのです。
言うまでもなく私の感想として述べますが、
これが善だ、これが進化だ、という方向性を定められるとすごく嫌じゃないですか?(笑)
それを集団でやらされそうになると、はぐれたくなります。

プレアデスエネルギーの一部には、そういう側面があります。
彼らの取り仕切る善や成長を、「よかれと思って」人類に教えてくれて、「導いて」くれるような。

繰り返しますが、全てのプレアデスの種がそうだというわけではありませんし、そのような教えの中にも、人類に役立つものも含まれています。

とはいえ「善の集団化」が苦手な人には、その種のプレアデスのエネルギーは息苦しく感じるでしょう。

ここに繋がる話題になるのですが、私が先日、急に思いついて見た映画がありました。

映画『アサシン クリード』(動画は予告編)↓

 

まずこの映画は、過去の回想シーンの後、主人公の誕生日から始まるので、★前回の記事★で書いた古代人の女の子に「誕生日」のキーワードで話しかけられたばかりだった私は、映画を見始めて早々にドッキリしました。

しかも、この映画の内容自体が色々な意味でタイミング的にドンピシャ。
エンキの授けた知恵(=自由意思)の象徴とも言える、エデンの果実(英語だとthe Apple of Eden)が、人類の自由意思をコントロールすることのできる装置として出てきます。

「人間の暴力性を排除するため」という名目の下、それを手にしたいテンプル騎士団と、彼らに渡さずリンゴを保護しようとする「アサシン」の闘い……が元にあるストーリー。

簡単なあらすじはこちら↓
アサシン クリード (映画) - Wikipedia

この映画は元々ゲームから作られたのですが、ゲームをプレイしたことがなく予備知識の全くない私でも、楽しめました。というか、原作のファンの人の間では色々評価が分かれるみたいですね。
確かに、後から調べてみると、映画だけではわからない「背景」がゲームにしっかりあって、よく考えられた設定なんですよね。

ゲームでは、「かつて来たりし者」と呼ばれている古代の人々が、エデンの装置を作ったのですが、彼らは人類を創った者でもあり、アダムとイブも彼らが創ったと。

かつて来たりし者 - Wikipedia
アサシン クリード、ゲームの中に出てくる集団についての解説)

これってまんま、シュメール神話の言うところのアヌンナキですね。

また、作品内ではアサシン達の象徴として「鷲(ワシ、イーグル)」が出てくるのですが。

鷲は、アヌンナキの象徴として使われていると同時に、プレアデスのある種族の象徴としても使われることがあるようなのです。
ですから、私は映画を楽しみながらも、実はプレアデスについて考えていました。

というのも、映画で見るアサシン達は、「自由意思」を守るために戦っているのですが、その一方で、彼らは自分たちの誓いに縛られてもいるんですよね。
自分のみならず、子孫も代々、アサシンであることを受け継いでいるし。
それは「個人の自由がない生き方」とも言えます。一見すると、自分の守りたい大義に忠実に生きるという選択ではあるのですが。

先に言っておくと、私はアサシン達の闘いやアクションが好きであり、わくわくしながら映画を見たのですが、それでも、自由意思のための闘いをする者たちもまた、自分の属する集団の意思に囚われるという、善悪二元論」の中で起こりがちな構造について思いを馳せました。

その意味で、「信条とする善のために尽くす活動」を促し、組織化する「旧プレアデス的な」歴史を振り返っている感じがしましたよ。

私たちは今はもう、そんな二元的な構造から出る時期なのですね。
なぜならそういった観念に基づく闘いって、同じものの両側面なので終わらないからです。

映画自体は好きだったので、続編が製作されるなら興味はありますね。
特にアクションと映像に魅せられ、高い所からアサシン達が飛び降りる「イーグル・ダイブ」のシーンが大好きでした。飛び降りるときの、あのポーズもかっこいい。

撮影は、CGではなくてスタントマンのダミアンさんが実際に高所から飛び降りたそうです。

高さ38mからのワイヤーなしダイブ!映画『アサシン クリード』メイキング映像

 

ダミアンさん、すごいですね!

そして、イーグルダイブ、私もしてみたい。絶大に惹かれるものがありました。


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