※今日の記事で使う「自我」という表現は、時々ふれている
A course in Miracles でいうところのエゴ(ego)とは、
意味が異なると思います。
学習者の方は、その点、念頭に置いて読んでください。
今からもう2年ほど前のことですが、
以前一緒に仕事をしていた人と思いがけない場所でばったり再会して、
びっくりしながら楽しく食事をとったことがありました。
その方は私よりずっと人生の先輩で
(一緒にお話ししているときはお互いの年齢を思わず忘れます!)、
精神世界関連の重要なお仕事を長年続けている方でした。
仕事の内容上、基本、おひとりの活動です。
個性豊かで、とてもパワフルな方です。
本当に楽しいひとときを過ごし、そのときはじめて、
仕事上の立場があって関わっていた頃にはお聞きしたことのなかった、
その方の意外な面も知ることになりました。
若い頃に海外で本格的な精神修養を行っていたという事実もそうで
(情報として知ってはいたが、ご本人から詳しくきいたことがなかった)、
お話の中で、その方はふと、こう言ったのです。
「(メンターが)私の自我が十分に強くなるまで、外に出さなかったからね。」
と。
当時の私は、この「自我が十分に強くなる」という意味を、
きちんと把握できていませんでした。
今日の記事を書こうとして、その方の発言を思い出しました。
今なら、よくわかるのです。
今回なぜ「健全な自我」がテーマなのか、説明するならこんな感じです。
私たちは本当にひとつであり、分離していることの方が幻想だからこそ、
この世界での「役割」として与えられた自我を保つことは、実はむずかしい。
☆☆☆
強い自我を持っていると思っている人間でも、
人の思考と自分の思考の区別がついていなかったり、
他者の価値観を自動的に受け入れていたりする。
何かを感じるとき、行動するとき、
自分がどう感じているか、自分は何をしたいのかを、
純粋に知っていなければ、「役割」は果たせない。
自分と他者の、健全な区別が必要なのである。
☆☆☆
この世界では、
「自分の望み」と「人の望み」を分けられる段階を通ることは大切である。
その段階をとばして、うわべの「ワンネス」を目指すことは、
危険ですらある。
自我を抹消するというのは、この世界で生きるときに、
個性のある自己をなくすということではない。
そうではなく、
個として生きるときの背後にある視点の問題である。
個としてのユニークな役割を与えられながらも、
「全体の視点」を感じていられるかどうか。
すべてである自己からの「焦点(フォーカス・ポイント)」が、
「個としての自分」であるという自覚を持つことと、
「分離した個」が実際に存在すると信じ、
それを独力で守るという視点から、ものごとを眺めるのとは、違う。
☆☆☆
あなたは独自の個を経験し、「健全な自我」を持つことができるのです。
☆スピリチュアルカウンセリング☆