BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

観察意識と罪悪感フリー

この前歌詞になぞらえて書いた記事の中で、
1点だけ、「ここ、疑問に思う人いるかな?」と気になるポイントがあり、
そこに焦点をあてて説明した記事を書いたのですが…

公開しようとした昨日の深夜、アメブロさんがメンテナンスだった☆
とりあえず質問もきてないみたいだし(あはっ!)、
順序を考えると、今日の記事を先にアップした方がよさそう。


☆☆☆

この間、急に衝動がわいて、昔買った本を読み返したんです。
バリ島を初めて訪れた直後、バリについて何か知りたくて買った本。

『私のバリ――神々の宿る島の記憶』 

私のバリ―神々の宿る島の記憶

私のバリ―神々の宿る島の記憶

 

※本に関してちょっと補足…私の感想では、この本は、著者の方の目線を通して、
プライベートな内的世界とリンクさせながら綴られている本と感じました。
それは、「私の」とつくタイトルの通りです。バリ好きには興味深い本ですが、
そういうわけで、プレーンな、なるべく色付けの少ないバリの情報がほしい人には、
もしかしたら向かない本かも…しれません。一応ご参考までに。

なぜこの本を読み返したくなるのかがよくわからないままに、
ざーっと読み返していたら、あるところでピンときました。

それは、バリ舞踊に関するこんな記述です。
(『私のバリ』40ページより引用。色付け・下線は私による)


『バリダンスを語るときよく使われる表現のひとつに、「タクス」という言葉がある。
この世のものではない霊力に取りつかれながらも、ダンサーとしての統制を明確に意識している状態を表わす言葉で、霊力が乗り移ったために自己を失う「クラウハン」とは一線を画している。獅子の様相を呈した聖獣バロンと妖女ランダの戦闘劇で、ランダの霊気に取りつかれ自らの体に短刀を切りつける男たちは、クラウハンの状態にある。僧侶の振りまく聖水でやっと正気に返る男たちは、クラウハンの状態で我が身に起こったことをまったく記憶していない。一方タクスを宿した踊り手は、自らの体の動きをはっきりと自覚しガムランの調べに乗りつつ、さらにはガムランを誘導していく主体性を有している。』


これってまさに、「」の体験をしている立場と、
それを観察している「観察意識」の立場の関わりを示唆しているんですね。


実はここ数年、私はゆるやかに「ピアノ演奏」に取り組んでいまして、
そこでもまったく同じことに気づいていたんですよ。

※私は本当に音楽が好きなもので、
自分が幼少期~学生時代習っていたピアノの腕について、
「どうにもマズイ」ということをはっきり自覚していました(笑)。
長年習っていたために、型としては「弾けている」と言えても、
演奏として見た場合には、「ヘタだなぁ、この人…」って思っていたんです。
それで、「ばあさんになる頃に、1曲でも満足して弾けたら」という気長な心構えで、
できるときに練習しているのです。

演奏がどうにもうまくいかないと試行錯誤する中で、
ようやく私の得た気づきが、
「自分が、弾き手と同時に“聴き手”にならないと、完全な演奏はできない」
ということだったんです。


演奏に我を忘れてもダメなんです。
それはそれで情感豊かな演奏になるかもしれませんが、
本当に完成させるためには、「離れたところからしずかに聴く耳」が必要なんです。


正確に、与えられた指示に注意を払いながら、情感を込めて演奏すると同時に、
ピアノという楽器がうたっているのを、離れたところから黙って聴く。

このバランスが完璧なとき、演奏がうまくいくのです。
入りすぎてもいけない。
離れすぎてもいけない。

「弾く」という主体性がありながら、同時に観察している自分がいる。
これって、さっき引用したバリ舞踏の「タクス」のお話と同じことですよね。


☆☆☆

まとめます。
これをスピリチュアルな表現で説明すると、

この世界にいる私たち(踊り手・演奏者)は、個という経験をしており、
感情や感覚を「感じます」。

私たちは「観察意識(内なる神性)」の、表現の媒体です。
(演じる“役割”がある)

と、同時に、

私たちはそれを「観察する者(内なる神性・目覚めている者)
であり、それを自覚することができます。


ですから、具体的な例を出しますと、

「感情・感覚」を排除するのではなく
感じることをやめるのではなく、

感じると同時に、感じている自分を、「観察意識」として見ている、
その自覚が必要なのです。

あ、怒ってるなぁ、私。
おっ、得意げになってる。
うわぁ、悲しいんだ~、私。
そうか、こういうことで傷ついたと思っているわけか。

…こんな風に、感じていることを意識的に見て」あげるのです。


そのとき!(ここ、大事です)

個の意識の私たちは、罪悪感があると
観察意識(内なる神性)に対し、
感じていることをすべて見せずに、
隠してしまいます


罪悪感があるということは、「罰」の存在も認め、怖れているということ。
裁かれる!恥ずかしい!怖い!と独自に思うから、
内なる神性の自分に、すべての情報を提供せずに、隠してしまうのです。

その結果、本来当たり前のこととして自動的に起きる癒しが、起きません。
必要な情報が光の前にさらされずに、どこかに隠されているからです。


「罪」という概念があると、
自ら裁いた自分の「悪いところ」を
内なる光に対して一生懸命防御しているのだということ、覚えておいてください。

防御する部分があればあるほど、
「観察意識」との間に、通信障害(笑)が起きてしまい、
結果、私たちはそちらの目線を忘れ、感情・感覚の世界にのまれてしまいます。


何を感じても大丈夫。
どんな感情が出てきたっていいんです!
目覚めるって、無感覚になることじゃないよ。

まずは、「気づいていること・自覚すること」に注意を向けてみてください。


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