きのうの朝方、いちどアップした記事なのですが、復活!!
ようやく、書きたかったことが整合しました(笑)
訂正、加筆したものを、再アップしまーす☆
もしかしたら~、私と同タイプな怖れを持つ人には、お役立ち!な記事に、
なるのではないかなぁ。
昨夜キッチンでお湯をわかしていたら、
大天使ハニエルさんと再びつながりました。
◆「原因と結果」の記事で書いたメッセージについて、
こんな風に言われたのです、
「学んだことをすべて捨ててください、というのは、
それらが無効だからではなくて、
あなたが、自分がまともでなくなるのではないか…とおびえているからです。
その怖れによって、受け取った情報を打ち消そうとするからですよ。」
それから、部屋に戻ると、こう導かれました、
「コース(A Course in Miracles)のURTEXTを開いてください」
え~、だって、学んだことをすべて捨てるんじゃないの?
と、思っていると、
先ほどと同じ説明が繰り返されました。
なるほど。要は、受信した言葉をそのまま信じてほしいということですね。
そうかそうかと、重いURTEXTをよっこらしょ、と開き、
特に考えもせず、ぱらぱら…
けっこう飛ばし読みもしてるからなぁ、このへんどうかな、
と思って止めたところで、目に入った段落が、
「spiritual eye(スピリチュアルな目)」についての記述でした(!)。
えっ…これは、最近インストラクションがあった「失われた目」のこと?
ここを読めということ?
と、思って読んでみますと、こんな内容でした。
以下、私のざっくりとした翻訳を載せてみますね。
☆☆☆
修正のための学びは、常に「スピリチュアルな視覚」の目覚めと、
身体的な視覚を信じることをやめることから、始まる。
このことが怖れを引き起こす理由は、スピリチュアルな目で見ることを、
人は怖れているからである。
そもそもこの怖れのために、人はスピリチュアルな視覚を閉じたのだ。
スピリチュアルな目では誤りを見ることはできず、
あがないのために、それを超えて見るのだと、以前お伝えした。
スピリチュアルな目で眺めるとき、
見たものによって非常な苦しみを引き起こされることは、確かである。
しかし人が忘れてしまっているのは、この苦しみが、
この知覚(スピリチュアルな目)の、最終的な成果なわけではない、
ということである。
スピリチュアルな目で、「汚された祭壇」を見ることを許可するとき、
それはまた即座に、あがないに向かって「見る」ことになる。
スピリチュアルな目が知覚するもので、怖れを引き起こすものは何もない。
正しいスピリチュアルな自覚からもたらされる結果はすべて、
単に、修正へと向けられるだけである。
見ることで引き起こされる苦しみは、
修正への必要性を強烈に「自覚」させるために起こる。
※下線は私による。
☆☆☆
むむむ…、これって…( ̄_ ̄ i)
だいぶ前に私が書いた記事、◆「癒しの基本・自覚すること」に、
内容が似ていませんか?
なんか、かぶるところあるような…。
つまり、この世界の中で、私が自然と見てしまっていた二重の現実、
(上のリンク、「癒しの基本・自覚すること」参照)
つまり、外観と中味の違った状態(歪み、不調和)が見えることは、
「修正の機会」として機能すると…いうことですよね?
で、そのようなブレが「見えた者」がすることはといえば、
見えてしまったそのブレにフォーカスすることではなく、
真実の姿(全体、完全性、まるごとの姿、WHOLE)に焦点を合わせることだ、
ということですよね!?
☆☆☆
と、これだけ書いておきながら、「スピリチュアルな目」について、
私は、はっきりいって、エイリアネーション(疎外感)、
自分が間違っているのかなという自己疑念を持っていたのです!
だから、ハニエルさんが示したいことはよくわかりました。
どういうことか説明しますね。
コースの言う「誤り」というのは、エゴ(分離した意識)の作る思い込みのこと。
この、それぞれ分離した物だの体だのが見える物質世界というのは、
コース流に言うと、それ自体がもう、
分離意識ならではのフィルターを通しているということで「誤り」なのですが。
この、本来起こるはずのない誤り(分離)…つまり「幻想・夢の中」で、
私たちが目覚めるためには、正しい知覚をすることが最優先である、
それによって人はこの夢を「幸福な夢(神性に基づく夢)」に変えることができ、
それができたときに、完全に目が覚める、ということなんです。
それで、私の言いたいのは、「正しい知覚」って、何か。
これはですね、単純に言えば「愛だけの目で見ているとき」のことなのです。
自我の愛ではないですよ!
さっきアップした記事のように、「あなたも、私も、ひとつの全体」、
ひとつの神の子として見たときの、神の愛…境界のない感覚です。
逆に言えば、自分の自我のフィルターを通しているとき、
「私だけの私」の目線から見ているとき、
私たちが見ている世界というのは、必ず歪んでいます。
そう…真実が見えない状態。
それで、前々から、「真実は、真実なので、真実である」とか、
「真実は、信じてもらわなくても、なくならない。傷つかない」
などとお伝えしていますが、
これもまた単純にいえば、
「曇りのない目で見ている」とき、私たちは正しく知覚しているということ。
そして、そこに見えるものは、
必ず愛に基づいており、皆が百%自然に受け入れられる現実なのです。
この感覚を、誤解を怖れずに言えば、私はずっと知っていました…!(ノω・、)
ええええ、そりゃもう、生まれてからずっと…。
そういう人、本当はたくさんいるでしょ!?
熱心な読者さんは、過去記事で読んでくださったかもしれませんが、
眠っている間に訪れる、ある次元なんかも、そうでしょ?
そこには…私たちが思うような「怖れや不足のある」リアリティーや、
「悪意の存在する」現実なんて、どこにも存在していないんです。
みんな共存してて、愛しい存在たちなんです。
さあ、これを踏まえていただくと、残りの話も簡単です!!よっ。(*゜▽゜ノノ゛☆
☆☆☆
ハニエルさん?私に、何が言いたかったのかしら?
「あなたは自信を持つ必要があるのです。
あなたは、今まで自分がスピリチュアルな目で見ていたことを、
なかなか認めませんね。
あなたが心の目で見たことをいちいち疑っていては、進めません。
あなたは自分の心の目の正確さを、完全に信頼しなければなりません。
あなたは『見えていなく』はありません。
あなたの訓練…失った目の回復…それは実は、
内なるリアリティーで見ているものを信頼するということなのです。」
そう!
私はけっこう「打ち消し魔」でした。
セッションなどを除き、自分の感じたことに自信がないために、
たくさん自己否定して…あるものをないって思おうとして…
必死で自分の感じ方のほうを変えようとしてた時期がありました。
いまだにその傾向は、あるのでしょう。
それが起こるのは、「絶対的な愛(Universal Love)」だけでなく、
ほろほろと、はかなく移り変わる「自我の思う愛」の価値観も受け入れる…、
そんな、いったりきたりする曖昧な基準、優柔不断な意志で生きていたからです。
「スピリチュアルな目の伝えてくることを、自分が素直に認めない限り、
あなたは、二重の現実のブレを、
まさに出来事(あらわれ)として体験し続けるのですよ。」
…な、なんて!? (-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
「あなたが内なる知覚で自然と見ていることは、役に立ちます。
それは危険なものではありません。
愛の目的から、ただ知ることを、否定しないでください。」
(注:結局、インディゴシリーズの記事で、以前私がふれていた悩みも、
ここに関係してくるようです…(´д`lll) なぜならば↓)
「あなたが自分に嘘をついている部分がどこだかわかりますか。
自分が心の奥で知覚しているリアリティーを、自分が認めようとしないこと。
この部分です。
自分で、自分に嘘をついていることになりませんか?
自然に、ただそのまま認めれば、心静かなはずですよ。」
ああ、そう…!(´Д`;)
そうなんです。
自分の中にある真実というのは、「ただある」ものであって…。
「大きい私からのささやき」です。
それは、あなたが表面上、何を信じていようと、変わらない。
あなたの中に、ずっとある。
それは真実であるからこそ、
人や世界と自分を分離させるものではなく、融合させる力なんです。
スピリチュアルな目で見ると、
うわべの人の発言や振る舞い、状況に関係なく、
その背後にあるものが「透けて見える」ことがありますね。
そのときに、それを「ジャッジせず」、自分の考えで反応せず、
かといって「見たものを否定せず」ただじっと見ていると、
コースでいうところの
LOVE(愛)か、CALL FOR LOVE(愛を求める呼び声)が見えるのです。
疑念によって、「自分のフィルター(怖れ・エゴ)」が少しでも混じると、
確実にその認識は歪んでしまいます。
自分の防御に入ったら、そのつながりは消えてしまうのです。
痛みにはまって別の世界へ入ってしまうのです。
だから、自分が白紙…中立な状態、「愛100%」になれているかどうかが、
いつもキーです。
☆☆☆
私は、自分が「見えている」ときにも、「見えていない」と思うという、
逆向きのエネルギーまで使って、自分で自分を疑い、葛藤していました。
人と違ってしまうことを怖れて、
感じたこと、心で知覚したことを自分が疑って、
自分が感じたことの方を、変えようとしました。
だから、自分の歴史を振り返れば、
かつて持っていた複数の心因性の症状も、
「夢の記録から、内なるリアリティーに気づく。それを認める」ということが、
劇的な治癒のきっかけになったのです(第一の目覚めですね)。
精神的な「症状」と呼ばれるものの中には色々な種類がありますが、
私は、自分の体験から、
「自分の感じていることを、ないことにしようとする試み」…
いつのまにか、たしかに感じている自分の一部を抹殺しようと努力する…
外の世界に合わせようと頑張るうちに、自分の真実がわからなくなる…
そんな対立する力がオーバーヒートして、
派生してしまうのではないかと感じていました。
でも本当は、そんなに恐ろしい「怖れ」の覆いの背後にあるものは、
いつも自分の真実、「神の子のアイデンティティー(自分と、源とのつながり)」
なのです。
それをナチュラルに受け入れるとき、そこへ自ら、振り返るとき。
私たちは「WHOLE(全体)」でいられます。
それでは、また次回!
★スピリチュアルカウンセリング★