以前書いた、◆「情報断食のススメ」という記事と同シリーズです。
私個人の感覚なのですが、インプットとアウトプットについて、
思うところがあったので書きます。
家族がかけているのをチラ見したり、ときに参加するくらいで、
テレビというものを全く見なくなって久しい私ですが、
久々にやや長めにテレビを見る機会があって、あることに気がつきました。
あー、これはもちろん、「モノ」それ自体がいいとか悪いとか、
ルールを作ろうとか、そういうお話ではありません。
あくまで、私の思うところ、についてのシェアリングです。
そこのところ、ご理解よろしくです(`・ω・´)
☆☆☆
なんだろう、テレビって、そのとき「没入」して見ていて、
「ああいい話だな~」とか「感動した」とか、「なるほど~」とか思って、
与えられた情報に色々なことを思ったり、感じたりする。
それで、なんだか高揚したり、「自分も体験した」みたいな気になれる。
心底、何かを共有した気分になる。いわば、いい気分。
それなのに、終わってみると、変。くったり、疲れている。
これは私が非常に共感覚的(五感をいっしょくたに感じるタイプ)だったり、
エンパシー(感情移入)が強かったりするからなのか、
ただ単に、テレビの音や光の刺激に疲れてしまうからなのか、
理由は特定できないのですが(いや、たぶん全部該当してる 笑)、
たとえば、テレビのついている状態でものを食べると、
私は必ずといっていいほど本当に「食べている」とは言えない状態になり、
気づくと胃の調子もおかしくしているのです。
それは、味覚をはじめ、感覚が乱れて「わからなくなる」、
気が散って麻痺するためか、振り返ると普段より量をとっていたり、
考えてみるとそんなには食べたくなかったはずのものに手を出していたり、
実際的な理由も心当たりますが、
いずれにせよ、
私は、テレビがついている状態では、そうならないのが無理だとわかりました(笑)
ある時点で、あきらめて受け入れました。
以前は、こういう敏感で「ヘンな」自分に、後ろめたさを感じていました。
家族のチョイスでテレビ自体は家にありますが、今では、
私は基本的にテレビのついている(視界に入る)ところでモノは食べません(笑)
私は自分の感覚や体質を尊重しなかったあまり、
すっかり長期にわたって健康状態をくずしていて、
健康とは何かがわからないほどだった経験があるので、
今では、自分の感覚に従って、つまりそれを優先して、
自分の生活というものを創っています。
それはどういうものかと言いますと、
「スピリットに従う。感覚を尊重する」
それだけです。
そうやっていても、決して人づきあいができなくなるとか、困ることはありません。
スピリット(内なる感覚)というのは非常に賢いので、
臨機応変に色々教えてくれます。
自分が自分であることに後ろめたさ、罪悪感を感じている頃は、
その気持ちがやはり外にも反映されていて、摩擦もありましたが、
「私はこうである」というのが自由に出せるようになると、
それに対して嫌な顔をする人はいないのだということがわかりました。
☆☆☆
私は、自分が「本当に望んでる」わけでもないのに、
だらだらと何かに関わっていると、すぐに体調を崩してしまうみたいです。
感覚がだれてくることに、自分が気づかない…麻痺していると、
後で「おわーっ」と、思うような不調に気づきます。
それ、リアルタイムで気づこうよ!
というのが、いまだにときどき、課題です(笑)
テレビに話を戻すと、あれっていつの間にか、なんとなく、
「自分が望んでこれも見ている」つもりになってしまうんですよね。
よくよく気づくと、興味を持っていたパートは終わっていて、
「もう結構!」だったりするんです。
その点、私が好んでいる音楽鑑賞だとか、
まぁネットのyoutubeなどの閲覧は、自分が操作して、止めたり、
選んだりできるところが、メディアの中では私向きだなぁ、と思っています。
好きな音楽を流しながら同時に何かやる、とかは、
けっこう大丈夫だったりするのですよね。
要は自分で選べて、そのときの波長に合っていればいいのだと思います。
イヤホンで音楽を聞きながら文章を書いたりもするし。
それもコンディションによって様々で、静寂も好きですけど。
「こうでなければならない」というルールはなくて、
常に、「今どうか」に感覚を合わせているということですね。
☆☆☆
ブログを書くこともそうですが、
「アウトプット」の作業に意識を向ける生活をしていると、
自分の中を外からの情報でいっぱいにしてはだめだなー
と、思います。
それは、ときに本だって同様です。
自分で、「本をやたらと読んで自分の隙間を埋めるように」しているとき、
あっ、ストップ!
と、気づくことがあります。
それは主に不安なときなんですね。
違う違う、私がほしいのは、本からの答えではなくて…
私の内からの答えだった!
そう気づいて、本を閉じることがあります。
☆☆☆
本当のいきいきした情報は、私の内側からやってくる。
少なくともそれと、手をつないでいるもの。
自分が望んでもいない情報で自分の中を無自覚に埋めているとき、
「忙しい感じなのに、無益」と感じます。
エネルギーを使っているわりに、むなしいのです。
一方、心を「止めて」、騒音をなくして、しずかに透明に外とふれあい、
内側の「無音」につながっているとき、何がなくとも幸せです。
心の中にまるで、ゆっくりと寄せては返す美しいリズムの波があるみたい、
湧いても湧いても枯れない、豊かな泉があるみたいで、
存在しているだけで楽しい。
これこそが、生きる宝だと思うんです。
私は意識的な、形の決まった瞑想はしないのですが、
人は「インプット」を自分で意識的に選択し、
心の静寂や自分の感じていることに注意を払うとき、
それだけで相当のストレスが解消されていき、
心が満たされるのではないかと思います。
そこにあらわれるのは、私たちの自然な状態だからです。
そこからは、神性と一体になった有益な「アウトプット」ができます。
それではみなさん、よい週末を~☆
クリックありがとうございます
精神世界ランキング
★スピリチュアルカウンセリング★