ようやく、予告していた「死」について書けるタイミングが来ました。
第一回目のこの記事の副題は、「もうひとつの理由」です。
◆「お金について2」の記事の中で、私があるとき、
実家に引っ越すことを決意したいきさつに少しふれました。
beats-and-love.hatenablog.comけれどもそのとき、経済的事情や自分の生活のこととは関係なく、
もうひとつの理由が存在していたのです。
私は、当時まで、実家に戻ることは一番したくないことで、
ひとりで生活するために頑張っていました。
過去の色々な事情から、家族も、その方がいいと強く思っていました。
こちらに戻ってこないで、何とか頑張ってね、と。
その方がお互いのためだと思っていました。
ですから、金銭的に苦しくても何年も「自分の生活」にとどまっていたのですが、
あるとき、ふと、当時の部屋のベランダに出て、日差しを浴びながら思ったのです。
「ああ、ここですることは、すべて終わったな」と。
それほどまでに保とうとしていた生活が、
すでにもう「残り、することはないこと」を、悟りました。
私は、会社を辞めるときでもなんでも、人生の転機ではいつもそうです。
ただわかるのです。
これまで自分の一部としてつながっていたものとの間に、
エネルギー的な絆がなくなる感じ、からになる感じと言えばいいでしょうか。
ここでの役割は終わった、もう何もない、とわかるのです。
そして、そのとき、自分ではとても否定したかったのですが、
同時にあることに気づいていました。
それは、私が実家で暮らしていたときからずっと心の支えであり、
長年、家族みんなの天使だった、うさぎとのお別れが近いという直感でした。
特に具合が悪いとか、変わった様子だとかいう報告もなかったのに、
私にははっきりとわかりました。
私は、このタイミングで実家に戻って、彼女を看取るのだと。
私が必ず家に住んでいるときに、彼女は亡くなるのだと。
☆☆☆
以前、預言はあてにならないということを書きましたが、
それでも、夢や直感を通してわかる「未来」というのは、あります。
たとえば、ある人がすでに旅立つ準備ができていて、
心の世界で知らせてくるときなどがそうです。
うまく説明できないのですが、それがただ起こると知っているときには、
心の底が「しーん」としている…
自分のどこかが、すでに受け入れているのを知るのです。
そのような形で、私はそれを知っていました。
一緒に暮らしていなくとも、静かなメッセージを受け取っていました。
ただ、いつもと同じ自分の気持ちに戻ると、それがいやでした。
そんなの気のせいだ、忘れようと思いました。
愛しているものの、肉体の不死を信じたかったのです。
☆☆☆
うさぎにしては長寿だったと思います。
途中、大病もせず、元気に生きてくれました。
以前、◆「味わい尽くすこと・うさぎの夢」という記事でも、それについて書きました。
名前は、ぴのといいます。
私は、ぴのが亡くなるときに、自分のことを色々知ることになりました。
一連の体験を通して、自分の弱さを、直視することになりました。
コース(A Course in Miracles)のレッスンも、それからしばらくは、
「There is no death.(死はない)」というところで、止まってしまいました。
今なら、言えます。
死は、ある状態からある状態への移行です。
フォーカスが変わる、ヴァイブレーションが変わるということです。
存在は無にはなりません。
私たちは、実際、今も霊(スピリット)なのであり、
肉体だけを自分だと思い、固まった物質をリアルだと思うよう、
この体験に自らをフォーカスしているのです。
☆☆☆
しかし当時の私は、「肉体という形」で体感できる生だけにしがみつきました。
看取る経験の中で、間違っていたな、と思うことがいっぱいあります。
たとえば、私が実家で暮らすようになってから、
最初は気のせい?というくらい、やがてみるみる勢いを増して急速に、
ぴのの体は弱まっていったのですが、
私と妹は、彼女を「何とか元気に」とばかり、考えてしまったのです。
(妹はすでに結婚をして家を出ていましたが。)
その点、家族の中でも、父や母は賢かったです。
これはもう、年齢だよ、その時期なんだよ、
くるものはくる、そっとしておいてやるのが一番いい、という考えでした。
私や妹は、違う、これはきっとただの病気だ、
まだ生きられる可能性はあるはずだ…と願い、
動物病院に連れていき、情報を仕入れて症状の治療法を探し…
とまあ、日々電話連絡をしながら、忙しくやっていました(笑)
本人(本うさぎ)、が、それを希望しているかどうかを無視してね。
信じたくなかったんです、死ぬなんて。
うさぎを診てくれる病院はあまりなく、
嫌がる父を説得して運転してもらい、
もともとの病院から紹介を受けた遠方の病院にぴのを連れていったとき、
その検査のときの様子、
私と獣医さんの会話をちゃんと聞いているぴの、
知らない場所、知らない匂いのもとで、知らない人に触られること、
お薬、レントゲン、
…帰りの車の中で、かごに入っているぴのの、ぐったりした背中を見たら、
私ははっきりと、自分の間違いを悟りました。
ぴのは、「やれやれ」と言っているようでした。
人間の私でも、車に酔ったりしてつらいのにね。
すでに具合が悪いぴのにとって、なんて負担だったのだろう…。
ごめんね、これは完全に私のわがままなんだ、と思いました。
次回へ続きます。
◆「旅立つ君へ(死のこと)2」
スピリチュアルカウンセリング