最近、自分の中心や静止点についてとくに書いていますけど、
ここに合っているときは何もかもが中立です。
だから抵抗ゼロなんです。
これを「自分に対して隠しごとがない」と言い表すこともできそうです。
こんな自分は受け入れられないよ!が、ない。
隠したい自分、見たくない自分が、ない。
これをジャッジしない、という言い方にしてもいいのですが、
このとき大切なのは、
ジャッジしている自分についてもジャッジがない
ということです。
どんな自分についてもジャッジがない。
「受け入れること」そのものについても、
ストラッグル(奮闘)になることがあるのをご存知ですよね。
受け入れたくない自分、抵抗する自分というのを見つけたら、
それも大きく受け入れて、そのままにしておく。
要するに、どの方向にも力を加えない、静止しているということです。
実際のところ、これは「動作」ではなく、
そのポイント(全部含んでいる静かな自分)がすでにあるので、
そこと一体感を持っているということです。
ただそのまますべてを含有する私には、
圧を感じるような努力の起こる余地はありません。
現状を、ほんとうにうけいれているとき、
何もかもがフラットになる。
このとき、迷いがあることも迷いにならない。
私は、好きにしていい。
楽です。
お手本はいないし、
こうならなければならないというのもない。
こうあるべき、というのもない。
けれども、パラドックスのようですが、
静止しているとき、自分が本当に何であるかがおのずとあらわれる。
湧いてくるものには余分な色がついておらず、
私は、葛藤なしに私を知ることができる。
究極の信頼ってこんな感じかなと思いました。
クリックありがとうございます♪
精神世界ランキング
☆スピリチュアルカウンセリング☆