今朝の富士山は、もう雪をかぶっていました。
白かったよ!!
このごろ記事で、富士山ウォッチャーみたくなってるvanillatreeです。
見えると報告したくなるものですね(笑)
あと、今朝は、鳥がとーっても騒がしかったです。
あのこは一体、なんて鳥?と、調べたら、ひよどり でしたね。
3、4羽がうちの下の木に止まって、大っきな声で鳴く、鳴く!
何してるのかな?と思ってじっと見てたけど、木の陰になってよく見えなかった。
ふつうに、ごはんだったかもしれない…。
それにしても、騒いでいた。
…で、鳥さん落ち着いてきたな、と思ったら、
今度は、通りかかった園児たち が、大はしゃぎ!
遠足でもあったのかな?
さて、今日はタイトルに「断捨離」という言葉が入っていますが、
私は、だいたいこういう意味でしょ~ と、流行を認識している程度で、
ちゃんと本を読んだりしているわけではありませんので、あしからず!
でも、このお話は、まだ「断捨離」という言葉がブームになる前のお話です。
☆☆☆
写真は、実家の玄関に飾られていた一輪刺しの薔薇。
敷物のせいもあって、なんだかチロリアン風でしょ?♪
そう、この間ね、私はひさしぶりに実家に行ってきました。
そうしたら…
あれあれ?
よく見ると、色んなところがびっくりするほど片付いて、スッキリ。
新調された物もあったし、それと一緒に周辺のスペース全体も片付いていて。
「どうしたの~?なんか、あちこちきれいになっちゃって!」
と、母に話しかけると、
「私も断捨離!」
とか言ってるではありませんか(笑)
実際、キッチンなどの共用スペースの他に、
母個人の部屋もきれいになってる…
何より、「衣装持ち」だった母の洋服が、だいぶすっきり!
取っておいていたものをずいぶん整理したんだよ~、
捨てたり、よろこんでもらってくれる人にあげたりさ、
と言ってる母のそばには、処分する古い衣類がもうひと袋。
…長年通勤している上に、もともとお洋服やお洒落が大好きな母、
アイテムとしての衣類は増えていく一方で、
以前は、私がすすめても「そうね、整理しなきゃね~」と言いながらも、
なかなかクローゼットに手をつけるのは、おっくうそうだったのに!
あらまぁ、いつのまにかやる気になって、片づけていたのです!
そんなことがあり、私は、帰宅してから、あるエピソードに思いを馳せました。
☆☆☆
今から数年前。
しばらくひとり暮らしをしていたのを引き払い、
実家に戻って暮らし始めた頃。
私は、家をせっせと掃除していました。
自分の引っ越しの荷物をおさめたり、部屋を整えるのはもちろん、
(空いている部屋で、セッションをするための部屋作りもしていたし)
リビングだのトイレだの洗面台だのキッチンだの…
共用スペースも、とにかく、あちこち。
私の目から見ると、
「え~、これも、これも、もう不要でしょ!?なんでずっとここにあるの」
とか、
「ここ、もう少し整理しないと…気が……orz 」
エトセトラ、エトセトラ。
以前の記事で、「場所や物とのコンタクト」とか、
「お部屋とお話し☆」とか書きましたが、
その感覚からすると、
ちょっと放置されすぎちゃって、気が澱んでるよー
という箇所が色々あったんですね。
決して不潔にしているとかではなく、
「使われてない」とか「構われてない」っていうエネルギーといえばいいのかな。
そういうのが放っておけなくて、掃除したり整理したりしてました。
家自体も、そういう「周期」だったのかもしれませんね。
つまり、そのタイミングで私が帰ってきたのも役割だった感じというか…
実際、家の外壁の塗り替えという大規模なものとか、
ゆるんで水漏れが気になってた水道の蛇口ごと新調して取り替えとか、
大小規模は違っても、色々そういうことがありました。
後から振り返ればいい思い出ですが、
当時、私は「ここも!あそこも!やらなきゃ!もう 」
と、内心いらいらしていたことが沢山あったし、
私の立てたさざ波、変化(今風にいうと断捨離)は、うるさがられたというか、
そのときの両親に歓迎されていたとは言えませんでした(笑)
父はもう、退職して家にいたんですけど、渋い顔をしていたし、
母も毎日、「今度は何!?」という感じだったんじゃないかな。
私は、(自分が住まわせてもらうというのもあるし)家を手入れしたい、
いい状態にしたい、という純粋な思い半分と、
「私がやらなきゃこのままでしょ!?誰がやるのよ~」
という、成り行き上しかたないじゃない的な、
ふてぶてしい思い半分とでできていました(笑)
そんなある日、ガツンと胸に響くことがありました。
ある朝、母が、
「いつもヨーグルトを食べていたあのスプーンがない!」
と、探していたのです。
私は、はっとして、
「もう変色してたスプーンでしょ?首のとこもぐにゃぐにゃ曲がりやすくて、
やわらかくて使いにくいねって前に話してたから、あの種類のセットは捨てたよ」
と伝えると、
「うそ!最近、ヨーグルトを食べるときあのスプーンのやわらかさがちょうどよくて、
毎日使ってたんだよ~。悲しい。」
と、言うのです。
母はひるま出勤していて家にいなかったし、
いちいち聞いていたら作業が進まないほど整理する物は色々あったので、
私は、台所の食器戸棚の引き出しの中も適当にきれいにしてしまったのでした。
「ごめん…」
と言いましたが、後日、母は新しいスプーンを買って帰宅、
「似たやつ探したんだけど、ちょっと違う…」
と、使ってみて、残念そうにしていたのです。
あぁ、家の状態が(気の通りも)よくなっても、
私ひとりが突っ走って、家族の気持ちをないがしろにしていたら、
なんにもならないな…
と、実感しました。
私の「よかれと思って」は、少々勝手だったな、と。
家族の雰囲気が尖ってしまったら何にもならない。
実際、私がそういう動きをしていたことで、
両親にも影響が出て、波紋を呼んでしまい、
両親が互いに、
「これもう捨てたら?」
「ここ、こんなにごちゃごちゃじゃない!だらしない」
などと、ケンカしてしまう場面も…。
そして、たとえば父が、謎の、こまごまとしたマスコットみたいな物
(出どころ不明の、携帯のストラップの先についてそうなやつ)
を、キッチンカウンターに並べて置いていたりしたのですが、
そういう物を、「邪魔だから」とか「そぐわないから」とかで、
どかしてしまうのはなんか違うし、
「合ってないな~」とかの目で眺めているだけでも(批判の気持ちが入ってると)、
相手はそれに抵抗する気持ちになるよね、と思いました。
自分が、相手を、意固地にさせてしまう。
その上、その流れで本人が片付けようが、片付けまいが、
うわべの行動はどうであれ、反感や嫌な気持ちは残るだろうね。
そんなの、自分の望む状態じゃないよね、
それぞれの好きなようにさせてあげたい、と。
☆☆☆
…こんなエピソードが懐かしくよみがえってきた、今回の出来事でした。
「私がやらなきゃ」は、場合によっては、
相手の判断する力や、
ペースを信頼してないことにもつながるよね!
私の中で、生きている教訓です
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