おはようございまーす
今日のテーマは、「成功・失敗のある人生は楽しいのかつまらないのか」です。
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人間は、自然と何かを描いて実現したり、志向するようにできています。
ただ、それが遊び
(=結果に関わらず楽しかったり、やり甲斐がある。参加することそのものが楽しい)
というあり方から離れてしまうと、
つまり一定の枠を設けて、そこに客観的価値を付属させると、
途端につまらなくなる上に、本来の道から逸れていくことがあります。
たとえば私たちの親しんでいる概念、“順位”などもそうです。
「一番」であることに過度な意味が与えられていないでしょうか?
「圏外」の価値は、本当に薄いのでしょうか?
順位、だけでなく「人数」という基準もよくあるものです。
(例:多い=よい、少ない=わるい)
大勢の人が支持するということから、幻想が生まれることもある。
☆☆☆
私は、この文章が浮かぶ前日、
広告やマーケティングといったことについて、考えていました。
自営で仕事をしていると、それについての勧誘もくるし、
色々なアイディアも提供されていて、避けて通れない感もある。
「探してくれてる人が見つけやすいようにする(その準備をする)」
ということは、私も必要だと思います。
それにしても、マーケティングのセオリーというものが、
私には同意できない、共感できないことが多いのです。
それら「戦略」を読んでいると、具体的なテクニックうんぬんじゃなくて、
その動機、心のあり方がいやだよ……と、ゲンナリしてしまうことがあります。
要は、私にとって肌に合わないってことなんですよね。
必要なことはやる、ということに異論はないのですが、
そもそも、基盤となる発想自体におかしなところがあるのでは!?
と違和感を抱くことがあります。
別に、広告やマーケティングの世界そのものを否定するという意味ではないんですよ。
現に、ときどき記事にも登場しているグラフィックデザイナーの私の妹は、
広告や商業デザイン、商品のパッケージなどにも仕事として携わっていて、
間接的とはいえその世界にふれるたび、私は、
特定のものを「商業」とか「広告」という風にカテゴリ分けして、
それらを一定の枠に入れることにも、本来はあまり意味がないんでは、と思うんです。
そんな折、以前こんな記事でご紹介したことのある↓
◆「癒さないポリシーとチャールズ・シュルツのスヌーピーにモノ思フ」
スヌーピーで有名な漫画「PEANUTS」の作者、
チャールズ・シュルツの名言集の本が本屋さんで目に留まって、少し立ち読みしてみました。
立ち読みかよ!(^▽^;)
うん、今回見た本は買わなかったです!ごめんなさい(笑)
というわけで、本屋さんでぱらぱら見た記憶から引き出すので、
正確な言葉なわけではないのですが、こんな意味の記述が印象的でした。
「市場が何を望んでいるかを調査してそれに応えるやり方は、考え得る限り最悪です。」
――これは私の感想ですが、「自分の描きたいことを純粋に紙におろす」ことが、
シュルツさんのポリシー、やり方だったんですね。
一般にこれは、ビジネスマンのやり方ではなくて、
芸術家のやり方と分類されるのでしょうが。
私は結局、そこ(発信する側と受ける側)がイコールになる関係は自然であって、
インスピレーションとはそういうものだと思っているので、とても共感しました。
このことは実は、内から湧くものに信頼を置くか、
外に見えるものに信頼を置くか、
どちらを「先(根源)だと見るか」の違いだとも言えるのですが。
(自分の内なる源泉が、「全体」と繋がっていることを認識しているか?)
一例を挙げると、シュルツさんはときには、ただ雨が描きたくて、
その楽しみのためだけに、漫画に雨のシーンを出したこともあるということでした。
それからもうひとつ、心に残った名言。
「映画のスクリーンに出ている俳優が、
自分は人々に見られるに価するだろうか、なんて、躊躇する姿が想像できますか?」
…そんなこと意味ないでしょう、というような話でした。
そう、自分の提供しているものが人々に受け入れられるか、
見てもらえるに価するかどうか、そんな心配をするのはやめろという風にも取れますね。
私が思うに、
「発信」するものが純粋なインスピレーションから出るものであれば、
必ずその「受け手」はどこかに存在するのです。
ただ、その過程を「枠」にはめること、つまり、
想定してしまうこと、自分の思うやり方で機能させようとすることが、
実は障害になるのだろうなと。
そんな風に考える私から、以下はこの記事を読んでいる方へのメッセージです。
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成功・失敗のある人生は楽しいのかつまらないのか。
「成功」、「失敗」という型が、あまりに固定されてはいないか。
あなたの本当に求めていることは何で、
心がささやいていることは何なのか。
「成功」や「失敗」という基準で判断する前に、
そのどちらか以外何もないと決めている、前提に気づいてほしい。
なぜなら、それを取っ払って「見る」ならば、「感じる」ならば、
多くのものがそこにはあるかもしれないから。
「型」のせいでもし、それを逃すなら、もったいないことです。
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