こんにちは~!
今日の記事は「お金」についてのお話です。
記事でもたま~にお金のテーマを取り上げていましたが、
(ご興味ある方はブログ内検索をかけてみてね♪ )
スピリチュアルな思想の中で「お金はエネルギーである」とか、
その他様々な概念にひと通りなじんでいた私でも、
ようやく最近になって「ん?」と、じわじわわかってきたことがありました。
それはゆっくり時間をかけて、
自分で本当に「別な角度から見つめ直す」という経験でした。
(写真は今日の青空です☆)
ここでようやく、人が生み出した「お金」という概念(アイディア)が、
ずいぶん無実の罪を多く着せられている…
(本来の役割とは関係ない“思い”をまとっている…)
と気づき、シンパシーが湧いてきて、かわいそうに感じました。
そこに被せられた色々なエネルギーを思うと、お金という存在に対して、
「ごめんねぇ…」
と、今までになかった気持ちと、感謝と、愛が湧いてきたんです。
そこで私なりに、お金の本来の役割についてと、
ひとりひとりが日常どんな風にお金を扱っていけるかについて書いてみます。
☆☆☆
私たちは、「ただ生きるために」ここにいるわけではありません。
冒頭からいきなりの宣言ですが、
これはブログ記事内で何度もお伝えしてきたことです。
霊的「存在」としての私たちは、本来、
「衣・食・住」の必要も、「生命維持」のために何かする必要もないのです。
(これを読んでもピンと来ない人は、もし「体」がなかったら…
意識存在としての自分だったら…と、想像してみてください。
「場所」だって必要ないし、住む「家」も必要ないですよ。お腹もすきません。)
もちろんこう言うことで、物質的な生活や、
それにともなうニーズを否定しているのではありません。
そうではなく、私たちのここでの「経験」の第一意義が、
「ただ生命維持のために生きる」ということではないのだと、
お伝えしたかったのです。
私たちの社会では、今では、
「食べるために(生きるために)」お金が必要、と考えます。
そう考えない人もいるでしょうが、多くの人に浸透している発想です。
そのため、大人の保護下にある「子ども」のうちはまだ自由な期間と認められますが、
「社会が定めた働ける年齢」になったなら、生計をたてることを期待されます。
その生計をたてるということについて、一般的には、
「お金を支払う義務」がまっとうできているかどうか
という視点からチェックされます。
たとえば仮に、自給自足の生活で暮らせている人がいたとしても、
納税その他「義務」にされているお金を払わなければ違反とみなされるでしょうし、
逆に、暮らし方はどのようであっても、その点さえ守られていれば、
とりあえず「優良」と認定されるような基準がありますね。
ちょっとおぼつかないたとえかもしれませんが、
私の言いたいことは伝わりますよね。
色々なものがお金に換算して考えられ、
人の存在や資質、能力、特技、才能も、
「で、それ、お金になるの?」
という見方で見られることも少なくありません!
そんな風なものの見方が私はずっと不思議でした。
そう、いつのまにかしっかり、
「生活」と「お金」は切っても切り離せないものになっていて、
生きることイコール、お金をどうにか生み出すなり持ち続けるなりする必要、
がある文明になっていたわけです。
よく考えればトンチンカンな部分がいっぱいあるのですが、
ここでは「お金の仕組み」そのものにツッコミを入れたいわけではありません。
むしろ、本来お金とは何だったか、です。
それは「媒体」、交換手段だったはずです。
要するに「道具」です。
ちりとりとかホウキとかと同じ、使うと生活を便利にしてくれる道具ですよ。
当然、道具は「人間が使うためのもの」であって、
「お金に人間が使われる」という構図はクレイジーです。
(実際、お金自体にそんな意図の力はないのですが…。)
ブログの初期の頃、カイジという漫画を紹介したことがありますが、
◆「語りたい漫画!」
漫画の中の話だけでなく実際に、人はお金のために命を捨てることがあります。
もちろん、「捨てる」なんていったって、捨てたくて命を捨てるわけじゃなく、
追い詰められてそうなってしまうということですよね。
この事態はもはや、人間の使う道具のひとつとしてのお金、
という立ち位置が、完全に違うものによって意味付けされていますよね。
私たちがおいしいお米や穀物、お野菜、乳製品、色々な食べ物を食べられたり、
雨風をしのげるおうちに住んだり、衣服を着ることができたり、
浄化されたお水を飲むことができるのは、一体何の力だと思いますか?
そこに関わっている人々や、動物や植物たち、大自然、
それらの全部に流れている生命と創造性の力です。
お金というのは、それらの過程で、それぞれに必要なものを交換したり、
ありがとうの気持ちを形にしたりするのに、便利な媒体でした。
お金そのものに価値があるわけではなく、
その背後にある思いや意図こそが意味を持ち、大事だったのです。
「お金」は、その思いや意図に仕えるための道具、アイディアでした。
ところが、お金の仕組みや価値が人間の思いによってひとり歩きしていくうちに、
お金そのものに色々な思いや感情、意味づけがなされるようになりました。
今でもよく見るならば、「お金」にまつわるどんなエネルギーも、
「お金」という物質そのものには、まったく関係がないとわかります。
個人個人の生き方の、ある部分をそこに投影しているだけです。
たとえお金のために死に追いやられる人がいたとしても、
いかに“お金”というものによって、
自分自身や愛する人たちに苦しみがもたらされているように見えても、
「お金」を恨んだりそこに価値を賦与することは本当は筋違いなのに、
私たちはうっかりすると「お金」というもの自体に意味付けをしてしまいます。
それは映画のスクリーンの中にいる配役に、観客席から斬りかかるようなもので、
一体誰がその映画をつくったか、とか、自分とは一体何なのか、ということを、
正確に把握していません。
お金そのものは、良くも悪くもありません。
ただ、私たちが盲目的に、お金を利用して人間が「作ったシステム」に入り込むなら、
苦しみの元になります。
ポイントをクリアーにするために、こんな風に考えてみましょう。
たとえば「お金に汚く」、「何よりお金を第一に考え行動する人」がいたとして、
その人がどうしてそういう考えや行動をとるかというと、
その人なりに描く幸せであるとか、安全であるとか
、
何かの目的のためであることは間違いありません。
紙幣や硬貨フェチでもない限り、「お金の先にある何か」こそが目的で、
お金そのものにただ埋まっていたいとかいう理由ではないはずです(笑)
皆、その望みの形態は違っていても、
本質的には「安全」や「平安」、「幸せ」、「豊かさ」がほしいわけです。
そして、それらどれもが「心」に属する資質です。
それらを求めること自体には何の間違いもありません。
自然なことです。
加えて、今の社会では「お金」を使わずに済む人はなかなかいないでしょう。
生活に「お金」が関わるのも自然なことです。
では、一体何が「苦しみ」を生み出すのでしょうか。
それは、「よろこび」でないもの、
自分の「本当の気持ち」が向いていないものに、
お金を関わらせるというところにあります。
あなたが嫌な気持ちや怖れや不安からお金に関わっても、
返ってくるものは…
「与えるものが、受け取るもの(=自分の発信するものを受信する)」。
これは、お金を「使う」ときだけに限らず、
お金をつくるときにも、受け取るときにも関わる法則です。
一方、あなたがよろこびや、幸せ、本当の気持ちに沿う形で、お金と関わるなら…
お金は、本来の役割(便利な媒体という役目)を取り戻します。
どんなものでも基本は「中立」です。
あなたの「意図」を忠実に反映してくれるのです。
お金へ、自分が被せている意味付けに気づいたら、それをよ~く眺めてみましょう。
あなたの心に、あなた自身が誠実であれば、
お金もあなたの現実の「よろこびのヘルパー」になってくれるはずですよ。
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