だんだん夜は涼しく感じるようになってきましたね。
晩夏になりつつある気配を感じます。
ある日の夏の夕空
(昇り龍さんがいたので写真を撮りました☆
携帯電話のカメラなのでとても細く映ってますが。)
今日のタイトルは、「人間にならない!という落とし所。」
2011年に書いた◆「人間になりたい!」という記事があり、
そこから時間を経た別の私の、その記事へのレスポンスのような感じです。
ちなみに、「人間になりたい!」という記事には、
◆「本当の人間であること」という補足の記事もあります。
この頃の私の世界観と、今の私とではしっくりきません。
ベクトルは大きく変わったのではないかと思います。
どういうところが変わったか。それを書いてみます。
☆☆☆
以前の記事と、“人間になる”という表現の定義自体がずれてきますが、
私は長いことやはり、どこかで、
「人間らしい人間」になりたいなと思っていたのでした。
それは、言葉を変えて説明するなら、
私が周囲の人たちの中に見てきた「常識」や、
人としての「共通の認識」のようなもの、
その中によりなじみたい、と思っていたということです。
個性はあっても、それは可能なのだから、と。
たとえば、“それが人間というものだよね!”とでもいうように、
人間というチームの共通認識に参加して、その愛しさに浸かっていたかった。
ところが、今では、そういった方向に向かうことをあきらめました。
自分に正直になればなるほど、
そちらにとどまるのでは「無理」が生じるとわかったからです。
自分というものを深く知っていけばいくほど、
私の進みたい方向と全然違うものには惹かれなくなりました。
「分離」という言葉は、精神世界では悪くとられがちですが、
私の中では、「それはもはや私の世界ではない」と完全に知るような、
自分にとってみじんも興味がひかれない世界というのが実際に存在します。
それは、同じ共通の世界に生きていながら、
まったく別の世界を生きているようなものです。
つながってはいるかもしれない。
でも、私はそこに“属して”はいない。
こう素直に感じることがあっても、以前は、
「わたしの世界」と「みんなの世界」を、なんとか結び付けようとしていました。
今は、源はひとつにつながっていながらも、
それぞれにそれぞれの世界があって、
元々つながっているからこそ、
それぞれの世界を自由に極めればいいのだ、と思います。
そして、
私も人間である以上、○○のようにならなきゃ
○○のように考えるべきだ、感じるべきだ
というような思考に苦しむことは、無駄だなぁと思うようになりました。
それは自分をすりへらすようなもので、
本当の解決にはまったく導かない苦闘なのです。
「自分らしく生きる」と、簡単に言いますが、そのアイディアすら、
外から提供された「自分らしくの型」に染まっている場合だってあります。
「幸せになろう!」と言いますが、
「幸せ」の基準もまた、外から提供された様式に沿っているかどうか、
で判断されていることがあります。
私は、そういうことを「見破る」自分を疎ましく思うことはやめることにしました。
「見破る」自分は、「感じる」自分でもあります。
どう感じるか、何を思うか、その基準は、人間という枠を超えた存在でもある私、
つまり真の(素の)自分自身にゆだねられています。
こういった思いが、今日の「人間にならない!という落とし所。」
というタイトルになりました。
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