BEATS AND LOVE

スピリチュアリティー、根本の癒し、ヒップホップ音楽とライフスタイルや考えあれこれ

本と波長の話

こんばんは。


昨日の夕方の月。



同じ時間の、夕日。写っている山は富士山です。



引き続きエネルギーシフトが進行中なのを感じています。


「何が黄金の知識か」という記事で、

本が読めずに(読みたくならないので)写真や絵、資料のようなものを見ている、

という旨を書きましたが…


そんな中でもつい、いつもの調子で、このシフトが済むのを待たずに、

前々から「読んでみたい気もするけど、取り寄せないと売ってないなぁ…」

と気になっていた本を購入しました。


でもその動機は、少し、手持ちぶたさ感からというか…


エネルギーシフトにともなって、

自分の中の古いものがガバッと整理されて、

ある種の空虚さ(スペースが空いたこと)を感じていたので、



そこに自然と次の景色があらわれるまで待たずに、

既知のもので埋めようとしてしまったところがあるんですね。



要らないかも?とう気持ちも半分はあったのですが、

好奇心が勝って…

「キャンセルはできないけどいいですか?」

と確認された上で、本屋さんに注文し取り寄せてもらったのですが。


ひさびさの、(自分の感性にとっての)大外れでした~。(^▽^;)

それはもう、「読めない」というレベルの!

内容が立ち読みできたら買わなかったなぁ~



ほかの記事で書いたことがあるかもしれませんが、

私は本を読むのは好きな方ですが、自分と波長が合わないと読めません。


これは「スピリチュアル」に目覚める前からそうでした。

(今の方が耐性はさらにないというか、以前以上になったけどね。笑)



頑張って読もうと思っても、たいへん苦痛な上に、

“文字”そのものは見えていても意味が入ってこなくなるのです。


ですので、波長がかみ合わない本を買ってしまった場合には、

あっさり処分します。

読まないものをただ持っているのも心地よくないので。


このセンサーは正確で、そう感じたものを、

後で読みたくなったことは一度もないです(笑)



一方で、よくご紹介しているチャネリング「セス」シリーズのように、

セスは語る―魂が永遠であるということ
ジェーン・ロバーツ ロバート・F・バッツ

4931449034


セス・ブック 個人的現実の本質
ジェーン・ロバーツ ロバート・F・バッツ

486451030X


はじめて手にした頃、興味深いと思ってどんどん読みたくても

内容が深遠で一度では理解できなったり、

なかなか進まなくなったりする経験

(読むと意識が途中で朦朧として数行ずつしか進まない)

も、ありました。


今思うと…というよりも、その体験をしているときから、

あまりにも、

「気づくと意識が飛んでいる。眠いわけでもないのに…?」

ということが頻繁に起こったので、


「これは、セスのエネルギーにじかにふれているのではないか」

「意識の別なレベルで、何か作業をしているのではないか」

と、感じていました。


独特の、濃密なエネルギーをリアルに感じていたんです。



本を読むという行為を通して、そこに通っている、

“本という形に象徴されている”

エネルギーそのもの と交流しているわけです。



きっと、書かれていることを論理的に理解する前に、

(当時の私には、理性レベルでは理解できない箇所が多かった)

意識の別の部分を使って“思い出す”準備を整えていたのでしょう。



とはいえ、その頃の私には、

何年も後に、自分がこの本を急速に理解するようになるとは、

あるいはこんなにも熟読するようになるとは、
思ってもみませんでした。


そもそも、セス・シリーズとの出会いもなりゆきでしたから…。

(『バシャール』のときと同様、セスの本を出版している会社に入り、

その会社が昔出していた書籍としてセス・シリーズを初めて知る、

いうパターンだったのです。)



この点を思うと、人生で本当に必要なものは、

思いがけない形でいつも自分にもたらされていた
、と言えます。


あなたもきっと、

自分自身の人生を振り返って、


これについてはいつもちょうどよいタイミングで、

勝手に(ひとりでに)補助されている気がするんだよなぁ~

ということが、何か見つかると思います。


それは、実はあなた自身が深いところで、

「私はこれに関連したことをするのだ」

知っていたり

「これについては才能がある、興味がある」

知っていたりして、自分自身で許可を出しているのです。


あなたの発する波長に、それを引き付ける何かがある

ということなんですよ。




余談ですが、昔は文学大好き人間だった私が、

スピリチュアルに目覚めて以降、

小説がまったく読めなくなりました。


すでに持っていた古い時代の文学を、少し読み返すことがありますが、

それも、以前に比べるとゼロといってもいいくらいです。


なぜそうなってしまったかというと、

小説からは、作者のエネルギーがものすごく強く感じられるからです。


「フィクション」という形式をとっていても、そうなのです。



小説という表現方法がそうさせるのか、

そこには、作者の「思い・感情」が巧みに、でも相当濃いまま、

「あたかも自分以外の人のことを書いている」

という形で、しっかりと放たれています。


そして、そこにある「ベースの観念(Belief)」を見ることもできます。



ですので、実際のストーリーがどうこうという話ではなく、

作品のエネルギーそのものへ、著者の心の中のあれこれというか、

何か生々しいところが含まれているので、

他の文章を読むより強烈に感じるのです。



読んでいてもこういうことを感じなくて済むくらい、

(あるいは感じても安らぎや平和を感じることができるくらい)

芸術の域にまで、自分の心のそういうあれこれを昇華した作品…というのは、

小説は「言葉」を使うからか、めったにお目にかからない気がします。


たとえば、絵をともなう漫画の方がまだ、

「日頃の自分」を突き抜けたレベルの表現をしやすいかもしれません。


これは「作る側」について考えたときの話なのですが…


絵という表現方法を用いる方が、

日常の思考から離れたレベルにアクセスしやすいというか、

インタラプト(邪魔)させずに、

そこにあるものをダイレクトに降ろしやすいのかもしれませんね。



今日は本とエネルギーのお話でした。



★スピリチュアルカウンセリング(対面・スカイプ・電話)★

お申込みのご案内

 

 ホーム

サイトポリシー

Copyright©2011 BEATS AND LOVE All Rights Reserved.