こんにちは~。
前々回に続き、日本神話関連のお話です。
一体どうしてこんなに古代探索をするようになってしまったのか…(笑)、
日々色々な情報を調べています(・Θ・;)
すると、
この情報を調べるためには、あの情報を知らなければならない、
という感じで、次から次へと糸が伸びて繋がっていき……膨大。
もちろん、今まできちんと見たことのなかった
◆「皇室の系図一覧」
なんかとも、にらめっこしているのですが…。
どこまでいっても、ただ情報を見つめているだけでは複雑化していくために、
自分の直観を頼りに絞り込んでいかないと、話が見えないんですよね。
色々、記事でお話ししたいことは増えてきているのですが、
今日は「ヤマトタケル」をキーワードに、これまでの続きを書きます。
☆☆☆
前回、◆「武内宿禰、猿田彦」の記事で、
武内宿禰はスサノオの子孫では、ということを書いたのですが。
(※該当記事の中の、矢印で系譜を表記したところ、
「親子の関係」と書いていたのを「子孫」に訂正しました。)
この話題の中で、先に注意していただきたい点があるのですが…。
さっきもリンクを張った、◆「皇室の系図一覧」。
この中の、記紀(古事記と日本書紀)が編纂される以前の天皇について、
記録されている名の天皇が実在するかどうかは疑わしい、ということです。
つまり…「天皇」という称号が使われたのは、
天武天皇あるいは持統天皇の時代から、のことだそうで、
その前には、大王と呼ばれていたんですよね。
以前の記事で書いた通り、代々の天皇を系図にして示すことは、
ときの権力者にとって「自分たちは正当な天皇の子孫である」と、
示すために必要なことでした。
ですので、系図には架空の実在していなかった人物が入っていたり、
実在していたけれども自分たちとは繋がっていない王の名前を変えて、
あたかも祖先のように「○○天皇」と示したりしている、ということです。
前回の記事では、「神武天皇」や「神功皇后」が出てきましたが、
そういった名前の天皇がいたわけではありません。
先に土地を治めていたが、のっとられてしまった側の人々を考慮すれば、
その時代には天皇ではなく、別の名前の王達がいたということになります。
調べていくうちにわかったことは、
重要な人物ほど、たくさんの名前をつけて、誰だかわからなくする。
そういった重要人物は、神社では、「神」として祀られているわけですが、
その詳細を調べると、この神様の別名は、こちらとこちらもそうで…
…ということは、全部同じ神様のことだったか!w川・o・川w
なんて、わかることがあります。
前回は、神功皇后とされる人物は、別名とよ、という説を出しましたが、
私は、この説にはまだ疑問を感じるところがありましたので、
さらに調べをすすめ、「神功皇后=卑弥呼」説もあることがわかりました。
これについてはまだ結論が出ていませんが、
神功皇后とされた人物が、本当はそういう名ではなく、
実在していた当時の重要な人物だったことは確かだと思います。
一緒に見ていった武内宿禰についてはどうでしょうか。
私のみた夢について書いた最初の記事では、
武内宿禰=ヤマトタケル説をご紹介しました。
そして前回は、武内宿禰は、
猿田彦や興玉神、住吉大神、塩土老翁…と、多くの姿にされ、
伝えられているということをお伝えしました。
(これらの神様、一般には別々の神様として説明されていますが、
よく調べると共通点が沢山出てきて同じ神様だとわかります。)
さらに、正史では、武内宿禰は300年生きた忠臣とされ、
景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5代天皇に仕えた…とされているのですが。
ふつうの感覚でしたら、「そんな人は実在しない」と、思うわけです。(;´▽`A``
この武内宿禰の、「宿禰」は尊称で…
日本書紀では「武内宿禰」、古事記では「建内宿禰」と表記されているそうです。
ところで、「ヤマトタケル」の呼び名も称号だということですが、
◆「ヤマトタケル ウィキペディア」
やまとたけるは、日本書紀では「日本武尊」、古事記では「倭建命」と表記。
そして、ちょうど気になって調べていた
◆「大御食神社(おおみけじんじゃ)」の説明に、こうありました。
古来はやまとたけるではなく、「ヤマトタケノミコト」と呼んだ、とあるのです。
ヤマトタケルと呼ばれるようになったのは歴史の中では最近のことで、
江戸時代の国学者の主張がきっかけだったそうです。
「宿禰」が尊称なら、名をあらわす部分である「たけのうちの…」と、
タケルならぬ、ヤマトタケノミコトの、「たけ」の名の共通点は気になります。
とはいえ呼び名だけなら、この時代に多かっただけかもしれませんが、
☆前回の記事☆で、神武天皇の東征…というキーワードがありましたが、
ヤマトタケルも東征をしていますよね。
時代はばらばらになってしまいますが、何せ、その頃の歴史や、
系図はあてにならないのです。
そして、この「神武天皇」は、
武内宿禰と神功皇后をあわせた架空の人物、
との説もあるのでした。
さて、なぜ私が大御食神社について気になって調べていたかというと、
武内宿禰が祀ってあることで有名な「気比神宮」という神社があります。
実はこの神社、私のパートナーの実家へ遊びに行ったときに、
近くにある有名神社だったので印象に残っていました。
神社を訪れはしなかったものの、そう遠くないエリアを散歩したりしたのです。
なので、夢を見たことがきっかけで武内宿禰について調べたとき、
武内宿禰が祀られている代表的神社として気比神宮という名前を見て、
とても驚いたのです。
◆気比神宮 ウィキペディア
この気比神宮に祀られているのは、本殿は、
○伊奢沙別命(いざさわけのみこと。別名:御食津大神、気比大神)
○仲哀天皇
○神功皇后
「天皇、皇后」は、本当はこの時代の別の名の王族であると先述しましたね。
では、本宮周囲に祀られている神々のほうを見てみましょうか。
○日本武尊(やまとたけるのみこと)
○応神天皇(おうじんてんのう)
○玉姫命(たまひめのみこと)
○武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)
(^▽^;)
神社の記録によると、元々の祭神は、伊奢沙別命(大御食大神)のみでしたが、
文武天皇(天武天皇・持統天皇の孫)の時代に、
仲哀天皇、神功皇后を合祀。
周囲に日本武尊をはじめとする4柱を祀ったということです。
つまり…
自分たちの「公式」とした歴史に沿う形に改変したわけですよね~。
ピン!ときていただけたでしょうか。
私が思うに、
武内宿禰=(神武天皇?)=日本武尊=…ほか、色々。
これまでご説明した数多くの神々。
そして、有名な、ヤマトタケルの「草薙剣」のお話も思い出してみましょう。
元々、スサノオの「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」が、
後にヤマトヒメから受け渡されてヤマトタケルの手に渡り、
窮地に陥ったヤマトタケルがその剣で草を薙ぎ払ったことから、
(あるいは、剣がひとりでに草を薙ぎ払って)、それ以来、「草薙剣」と呼ばれた。※
(※余談ですが、三種の神器のうちこの剣だけは、平家滅亡とともに水没、
紛失したと言われています。)
◆天叢雲剣 ウィキペディア
スサノオの神剣を引き継いだというストーリーを考えれば、
ヤマトタケルはスサノオの子孫だということがわかります。
つまり…「天皇」となった者たちが、存在を消したかった側の者。
ですから、山陰地方のみならず、北陸や関東をも含む、
広い地域を治めていたであろうスサノオの子孫(当時の王たち)に、
「武内宿禰」をはじめとするたくさんの名前やキャラクターを与え、
架空の伝説の人物にし、それが誰だかわからなくしてしまった…。
あるいは、あたかも自分たちの祖先であるかのように名前を変えた。
さらに、気比神宮にはこんな言い伝えがあるそうです。
大臣の武内宿禰に連れられ気比神宮に来た、太子(皇太子の頃の応神天皇)。
夢で、気比神宮の神イザサワケにこう告げられる。
「私の名を、太子の御名と交換してほしい」と。
太子が承諾すると、贈り物を奉るからと翌朝、浜に出るよう告げられた。
浜に出ると、鼻の傷ついたイルカが、たくさん打ち上げられていた。
食料を献じてくださったのだ。
太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおみかみ)」と讃え、
その名が「気比大神」になったという…。
応神天皇と、主祭神イザサワケが名前を交換?
名前を交換するということに、「隷属」の意味を見い出す解釈も多いようですが、
もともと祀られていた存在の名前を応神天皇に変えた、とも読めますよね。
もともと祀られていた存在(スサノオ系の子孫)は、
イコール、「御食津大神」にもなり、外の正史では「応神天皇」でもあり、
ヤマトタケルや武内宿禰としても祀られ…ということでしょうか?
もちろん、その時代に活躍した同族の複数の人々を、
あたかもひとりの有名人のようにまとめてある可能性も考えています。
御食津神といえば、食物を司る神です。
伊勢神宮の外宮に祀られている「豊受大神」もそうですね。
なんだか色々見えてきませんか?
★スピリチュアルカウンセリング個人セッション(対面、スカイプ、電話)★
「個人セッションのご案内」