今回の話題は、読んでいる誰もにぴんとくるものではないかもしれません。
でも、私自身も経験したことであり、この傾向を持つ人はけっこういて、
特に精神世界・スピリチュアルの分野に興味がある方の中には、
共感する方が多いのではないかな、と感じているメッセージです。
「直したくなるあなたへ」です。
色々な物事の中に、
「これを、こうしたら良くなるのでは…」
「ここをこんな風に改善すれば、もっと楽になりそう」
「問題点は、これなんだな!」
というポイントを見出すと、
それを自ら何とかしようと、一生懸命動いてしまう人がいます。
その結果、重宝されたり報われるということもあれば、そうでないこともあります。
(もちろん、その「見立て」がいつも正しいというわけではないですしね。)
人に対しても、同じことが言えます。
「この人が苦しんでいるのは、こういうことを信じているからなんだな」
「こういう思いがしこりになっていて、痛がっているんだな」
「こんな恐れがあるから、自分を防御する必要を感じているんだな」
そう気づくと、何とかしてあげたくなる。直してあげたくなる。
本人にも気づかせてあげたい、楽にしてあげたいという気持ちになる。
それは、たとえていうならば、
「なんだか頭痛がひどいんだよねぇ~(^▽^;)アイタタ!」
と、困っている人がいたとして、
その人のおでこに画鋲が刺さっているのが見えたら
「あの~、ちょうどおでこのあたりに画鋲が刺さっているから、
それを取ったら痛くなくなると思いますよ」
と、言いたくなる。
痛みに共感して手助けをしたくなってしまっているために。そんな心境です。
ところが、
ところが…
私たちの“経験世界”では!
引き続き同じたとえで説明すると、
画鋲を取るタイミングは本人に任せなければならないし、
(つまり本当に取りたいか、取りたくないかも)
痛みをいつまで感じ続けるか、どのように解決するかも、
相手のペースや意思決定を尊重する必要がある。
ということです。
これを肝に銘じないと、
あなたからすれば純粋に手助けをしたい気持ちからであっても、
あなたの「直したい」気持ちが相手には重いし、負担です。
余計なお節介になるのです。
相手からすると、あなたは「自分を変えようとする嫌な人」にもなるでしょう。
かといって、そのようにすでに感じているあなたが、
「ただ見ないふり」をするのもきっとつらいと思います。
スピリチュアル風に、「これはこの人の学びなのだ」なんて眺めるのも、
なんだか一歩間違えると上から目線だし、
苦しんでいる相手を実際に目前にしたら、
「好きでやっているんでしょ。」
なんて突き放すこともできなくなってしまいます。
目に見える表層の部分だけを「リアル」とすれば、本人にとって、
「好きでやってるんじゃない!」のは間違いないですから。
でも、現実には、あなたがそうやって相手を眺めているだけで、
場合によっては何かを要求している「敵」として見られてしまう可能性もあります。
つまり、その人の現状を乱す相手として警戒されるのです。
これが起こるのは、相手が本心では変化を望んでいないときです。
もちろん、まずは背景にある自分側の動機に、
自分自身の「相手にこうであってほしい!」という思い、理想像が入っていないか?
その確認が必要です。
もし、現状の相手を否定してしまっているのだとしたら、
心を開いてもらえるわけがありませんよね。
これを確認したら、さらに大切なのは、
相手の「目の前に見えている姿や発言」だけではなく、
その奥にある部分に焦点をあてて、心で尋ねてみるということです。
今、私にできることはあるのか?
この状況を変える手助けをしてもOKか?
質問内容は適宜変えていただいていいのですが、
あなたの投げかけた思いに対し、心でキャッチする「答え」がノーなら、
積極的に何かをすることはそこでストップです。
なにせ、私たちには物事の全体が見えていないのですから、
そうやって受け取った直観は尊重することが大切です。
しかもそのとき、改めてあなたが「自分の意識」を注意して見つめると、
あなた自身が相手の中に見ている、
「反映された現実」の元となるものが見つかるかもしれません。
ある種の思想上では、
「自己犠牲」や「自分の身を投げ出してでも献身的に何かを行うこと」
がいまだに推奨されることがありますが、
そこには歪みがあり、結局は、双方が消耗し不幸になるあり方です。
あなたが本心から何かを行っているときには、
自己犠牲の感覚も、自分の身を投げ出している感じもないのです。
なんだか疲れているな?
よろこびに基づいていない「直し屋さん」をやってしまっているな?
そう感じたら、まっさらなあなたに意識を戻してくださいね♪
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