こんばんは。
今回のテーマは、「大きな視点で見ると(テロ、戦争、その他)」です。
副題を、「私たちの意識の劇」と名付けます。
数日前、◆「物事は相対的である」という記事の中でふれました、
私のセッションを受けてくださった方でフランスに深く関わりのある方、
anamiemさんにご無事かどうか確認するメールをお送りしたところ、
とても興味深いお返事をいただきました。
anamiemさんは実は、以前、
◆「自己犠牲の観念にサヨナラ」と題をつけさせていただき掲載致しました、
スカイプによる個人セッションのご感想を書いてくださった方で、
今回も私の突然のメールにも関わらず、とても丁寧にお返事くださったのです。
内容が大変興味深く、私だけにとどめておくのは勿体ないと感じたので、
anamiemさんに掲載の許可をいただきまして、ここにその一部をシェアします。
☆☆☆
(以下は、安否確認のお返事に続く内容です)
私は、フェイスブックやニュースなどで、パリ人のコメントをダイレクトに見ているわけですが、人災であるテロと自然災害である震災が似ているように感じられます。
今、パリでは、事があまりに大きすぎて、何が起こったのか皆受け止め切れずにいるような印象があります。
あの震災のときのように、自分は生かされた、けれど、それは喜べるものなのかわからない、どう受け止めればいいのかわからない、そんな感じに見えるのです。
実は、私は少しほっとしてもいます。
テロが起こった直後(1時間後に知りました)には、またこのテロとイスラム教徒やアラブ人を結び付けた差別のムードが濃くなるだろう、と思いました。
そのことで、今後、パリで私の近しいアラブ系の友人たちが仕事を見つけることも不可能に近くなるかもしれないと思いました。
それから、アメリカのテロの時のように憎しみと怒りが膨らみ、フランス社会はそれをぶつけるための身近な敵を探し始めるだろう、とも思ったのです。
しかし、あまりにも事が非人間的過ぎたことで、むしろ隣人のアラブ人とテロとの次元の違いを認識したようにも感じられますし、
また、今パリの一般市民の感情にあるのは、深い悲しみと、
悲しみに沈むものを孤独にはさせない、悲しみを分かち合おうという共感であって、憎しみはあまり感じないのです。
きっと消耗してもいるのだと思います。
(シャルリー・エブドのときは、もっと憎しみを感じました。)
東日本大震災のときにも、国際的なモニュメントに日本の国旗の色のイルミネーションが灯されましたが、
今回もフランスのトリコロールが灯され、スポーツの試合にはフランスの国家が流れました。
世界がこうして心を寄せ合う姿は、何度知っても感動を覚えます。
そして、やはりmasumiさんとのセッションを思い返さずにはいられませんでした。
助かった人々には、現場近くにいながら、たまたまピンポイントの場所へ行かなかった。
たまたま遅刻した、などの理由がそこここで聞かれます。
きっと、見えない存在の護りだろうと思います。
masumiさんは、セッションで、潜在意識などで受け入れていないことは人生には起こらない。
護りの力が弱いから、アクシデントの犠牲になるということではない、とおっしゃっていましたよね。
じゃあ、どんな理由で犠牲を受け入れたのだろう、と私は考えました。
例えば、政治家たちのように人の命をかけてでも、このテロに屈するべきではないと考えている人なのだろうか。
それでは、テロの犠牲になることは受け入れない、と拒んでいれば、今後も自分や自分の周囲の人間を護れるだろうか。
そんなことを徒然に考えていました。
最初のセッションで、今後の私の課題としては現実の奥を見ることと教えて頂きましたが、本当に現実だけに焦点を当てていると、心配ばかりになってしまいます。
私は、masumiさんにきっかけを頂き、現実を違う視点から見ることができるようになりました。
人々の目にテロや事件しか見えなくなってしまったとき、本当にこの世界は暗いものになってしまうでしょうね。
そう考えるとき、スピリチュアルな活動や芸術活動の重要性を強く感じます。
今回も、masumiさんのブログに出会っていなければ、私は大きな不安に陥れられていたことでしょう。
でも、今、私は大丈夫です。
心配することよりも、世界に希望をまく一人であるために努力することの方が大切だとわかっているからです。
それで、今日は紅葉を見に行ってしまいました(笑)。
爆撃音に怯える心配もなく、紅葉を見に行けることにとても感謝しながら行ってきました。
きっとテロはこれで終わりではないでしょう。
思わず心配事が湧き上がってくる癖もすぐには直らない私ですが、
怯えることよりも、世界にある優しさに目を向けるように努力しています。
もし、私がパリに戻ったら、いつかmasumiさんも遊びに来てください。
案内しますよ!
<追伸>
テロの問題やシリアの移民問題を身近に感じる人間の考えとして伝えたいことは、
「人は、たとえ理解できない相手でも、受け入れることができる」
ということです。
理解しようと努力するよりも、受け入れる決断を先にしてほしい。
それが今の国際社会にも日本社会にも求められているように、私は感じています。
理解するための理屈を探せば、
分離を正当化するための理由しか見つからない、と実感するからです。
(分離=嫌悪、差別、迫害、戦争)
無条件に、相手の存在や周りの環境を受け入れる、
それは、幼い子供のうちは誰もがしてきたことなのですから、
大人だって、少しの努力と決意で、今よりも寛容になれると思うのです。
そして、寛容になった方の心も平安に導かれるのではないでしょうか。
★anamiemさんより★
☆☆☆
anamiemさん、掲載の許可と素敵なシェアリングをありがとうございます。
他の内容は私信ですので省略させていただきますが、
anamiemさんの元気なご様子に安心すると同時に、
私も、いただいたメールを読んで、記事に書きたいことが明確になりました。
また、一緒にお話しした個人セッション時の内容についても、
こうして思い出させていただいたことで、
私自身の意識の向け方を再確認し、整える助けにもなりました。
さて、anamiemさんのメッセージとはまた異なる観点で、
タイトルの「大きな視点で見ると」についてお話ししたいと思います。
まず、これは以前からブログメッセージでも綴っていることですが、
私たちの誰もが、自分がいつどのようにこの世を去るか、
ということを自分で決断します。
それは、「あらかじめ」決まっているというわけではなく、
(ご存知のように私たちには多くの選択と、並行現実もあります。)
私たち自身が生きながら、その都度その都度選ぶのです。
それは「ライブ」のようなものだと、以前お話ししましたね。
そういうわけで、私たちの「人間的な」目線からすれば、
今回のテロのような場合には「加害者」と「被害者」が存在しますが、※
(※ただし、誰が加害者で誰が被害者かということは相対的なものですが…)
誰も、本人の意に反して死ぬということはないのです。
純然たるこの次元の目線から見たら、
もちろん“被害者”が存在する事象はたくさんあります。
でも、さらに大きな存在の次元から見るならば、
そこには本人の意思、選択が必ず関わっているのです。
また、いつ、どのように死ぬかということについての、
個人個人の選択にはさまざまな理由、背景があるので、
たとえ同じ出来事や場所、時間に亡くなっていたとしても、
その背景を一概にまとめて判断することはできません。
私たちの常識的な発想からすると「不幸」に見える物事であっても、
どの方にとっても、その選択がご本人にとっては適していたからこそ、
何らかの理由でその経験を選んだのだと、ご理解ください。
その意味では、死を強制された「被害者」はいないのです。
それから、
anamiemさんもメッセージの中で書いてくださった、
「受け入れる」ということに関して、私なりにお話しします。
思い出していただきたいのは、テロや戦争、どんな痛ましい出来事も、
自分の「外」にあるというわけではない、ということです。
すべて、私たちひとりひとりの、自分の「中」にあるのです。
外の世界で見ているものは、私たちの意識の劇です。
意識の中で起こっていることが、ここでは「外」の出来事として、
現実として経験されます。
外で起きている様々な問題、争い、事件等を見たときに、
「自分の中にもそうなりえる部分がある」ということを認められずに、
つまり、そういったものが「自分の中にもある、自分の一部である」
と受け入れることができずに、単に、外側にそれを投影していると、
「外に(自分以外に)、“敵”や、ひどい物事が存在している」
という発想になります。
「私」はそんなことは絶対にしないが、外にはひどい人や物事もある、
という風に、「分離」した発想で考えます。
すると、それらは「他者が起こしたもの」であり、
あなたはそれにおびえる人になるかもしれないし、
その“害”を防ごうとする人になるかもしれませんが、
いずれにしても、対象そのものを、変えることはできません。
なぜなら、あなたの「外に」それがあるのだと信じているからです。
ところが、
自分の意識の中ですべてが起こっているということを理解すると、
あなたの「働きかける場所」、見つめるべき根本的なところは、
内側にあるということに気づきます。
これは単純な例ですが、
ご家庭は、周囲の人間関係は、平和ですか?
心の中で何かを憎んでいないですか?
日頃の心の模様はどうでしょうか?
私たちの「中」にある、本質的に同種のものを、そのまま、
自分の内側にあるものと認めて受け入れていかなければ、
外の惨劇もなくならないのです。
外に起こることは、私たちの意識の「劇」だからです。
それは、ただ単に現実の出来事から目を背けるということとは違うし、
自分は無関係であるという思いから、傍観者になるということとも違います。
外の出来事をきっかけに、「自分の内にある芽」に気づき、
詳細のみに囚われず、発生している現実の「元」の方を観察するのです。
自分が受け入れたものは、元々の繋がりを取り戻し、融合し、
やがて、別な形に変化します。
すると、世界も連動して変化していきます。
私たちひとりひとりの心が平和なとき、
様々な自分自身の側面を認め、切り離すことなく受け入れたとき、
外に見える世界もまた、それを映し出したものになるでしょう。
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