こんばんは。
今夜の話題は、「二元的な見方を超える」です。
私たちは色々なものごとを、対立する構造や、
二元的に分けた見方で捉えてしまいがちです。
「対立する構造」といっても必ずしも「戦い」の意を含むとは限りません。
まずわかりやすい例としては、「私」と「あなた」。
それから、「自然」と「人間」というのもそうですし、
「○○について賛成派」と「反対派」という見方や、
前回◆「情報とのつきあい方」の最後でちょこっとふれた、陰謀論と呼ばれる概念では、
「支配者層(あるいは特定のグループ)」と「一般の人々」
…なんていうのもありますよね。
もっと言えば、現代では当然のように考えられている、
「主観」と「客観」があるというのも二元に分けた見方で、私たちは常に、
現実をそのように「私」と何らかの形で分離するものとして考えているんです。
現代の、常識的なものの見方の「スタンダード」では、ですね。
でも実際は、
私たちがものごとを自分と分けて考え、経験することが可能であっても、
何ひとつとして「分離しているものはありません」。
たとえば、あなたがお庭のチューリップを手入れするとき、
「チューリップという姿をとっている私を手入れしている」
などとは考えずに、
「チューリップ」という“自分とは別の生物”、植物を手入れしている、
と認識しているのではないでしょうか。
そういった見方は、この世界ではとてもよく機能していますが、
かといって、それが普遍の真実なわけではない、ということです。
自然対人間、と考えるときにも、あたかも、
自然が「人々とは別の力として」存在するように認識しています。
たとえば天候も、人々の意識とは無関係なものとして、
「気象現象」として客観的に、分析されます。
こういった見方では、太古の人々が天候を変えることができたという事実を、
「迷信的な、現代よりも遅れた文明」としか捉えることができないでしょう。
ところが、人の意識エネルギーと天候との関係…
それを理解できていて、そういうことを行っていた人々もいたのです。
(形骸化した後、そのような本当の作用を理解せずに、
ただの儀式や形だけの祈祷になってしまっている場合もあります。)
現実と意識との繋がりをわかっていた人々は、どの時代にも存在します。
現代文明ではあまりにそれを「否定する」ことが「常識」になりました。
☆☆☆
一部の政治家たちや、特定の宗教や、国や、文化や、民族や、
ある人の在り方、考え方などをただ批判しているとき、
あなたは、その人たちから自分を「分離させて」考えています。
彼らを、「別な表現をとっている自分」とは考えません。
自分と別なものだから、そこから生み出される思いの原因、
「帰属先」は相手だと考えているのです。
ですから、
「相手を批判することで、相手を変えられる」
あるいは「打ち負かしたり、改心させることができる」などのように、
信じ込みます。
でも、それは幻想です。
それは二元的な観念に基づいた、この世の集合的な「マトリックス」、
集団で信じている夢です。
マトリックスの外に出てください。
実際はあなたはそのゲームの「中にはいません」。
あなたという存在は常に、「夢をみている側、創っている側のもの」です。
何も特別なことではありません。
秘儀やイニシエーションが必要なわけでもありません。
“夢の中をさまよう夢の登場人物である私”、
という幻想から、「我に返る」だけのことなのです。
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